近世までのふるさと
縄文・弥生時代のふるさと
縄文時代
山南町での旧石器の出土は現在のところ報告されていないが、縄文時代(7000年
〜2300年前)の遺物が三か所で確認されている。19梶遺跡(二重堂地区)で石棒
(全長32cm)と打製石鏃(全長1.5cm、サヌカイト製)が、39井原遺跡群で乳棒状石斧(全長17cm、西古田出土)、石鈷(西古田出土、打製石斧(全長10.5cm、椋ノ木出土が、46岩屋遺跡で石鏃(サヌカイト製、アミダジ出土がそれぞれ採集されている。これらの石器が出土した岩屋・井原・梶の地域に人々が住み、加古川(佐治川)やその周辺の山野で漁撈や狩猟の生活を営んでいたであろうと考えられる。

弥生時代
弥生時代(2300年〜1700年前)の遺物は、縄文時代の遺物が採集された場所だけではなく、10応地、12草部、23梶(ヒノクチ)などの各遺跡からも出土していることから、弥生集落の存在が各地にみられ、加古川流域の開発が一段と進んでいたことが推察される。
34井原至山遺跡では壷形土器、甕形土器、高坏などが多く、鉢形土器、土錘、砥石も見られた。出土状況から高地性集落の存在が考えられる。39井原高反遺跡では播磨系と山陰系の弥生土器が共存している。すなわち南北の交流が盛んであったことを示している。
また、篠山川流域の67金屋、102篠場、106下滝、109青田の各遺跡の遺物によって、東部の谷部にも開発が及んでいて、わずかな平地にも弥生集落が点在していたことを示している。さらにこれらの遺跡から出土した播磨系、摂津系、山陰系の弥生土器の存在は、山南町が単に南北だけでなく、東とも通じた交通路の交点となり、各地との交通交易が盛んであったことがうかがい知れる。なお篠場遺跡より弥生中期の木棺墓一基、把手付き壷、賓、高坏器台等が出土している。
古代のふるさと
古墳時代
古墳時代(1700年〜1400年前) の遺物散布地は、主に河川が形成する沖積地に広がり、その背後の丘陵に古墳群が存在することが多い。和田・小川地区では加古川流域に応地遺跡、草部遺跡、梶遺跡(二重堂地区)、井原遺跡群などの散布地の背後の丘陵に、11応地山田古墳群、17梶古墳群、38野坂大谷古墳群、41丸山古墳群などがある。また、西谷集落南に1小畑藤ノ本古墳、岩屋谷に48片山古墳群や59イシヤラ古墳などがあり、久下地区では篠山川流域の谷川遺跡群の背後の丘陵に、80谷川野田古墳群、83愛宕山古墳群、94谷川東山古墳群などが密集している。篠山川右岸では66金屋墓ノ尾古墳群、87大河土山古墳群、64岡本久勢の松古墳群があって、上久下地区では、100畑内西山古墳、107上滝ヨウメイ塚がある。このように古墳時代の遺跡分布は、加古川流域だけでなく、篠山川流域や狭長な谷部にも広がり、周辺が開発されていった状況がわかる。
古墳時代中期までは、丸山古墳群が所在する井原遺跡群が中心的な存在であったが、後期に入ると谷川遺跡群背後の丘陵一帯が町内で最も多くの古墳が造営された地域となる。井原遺跡群や谷川遺跡群で古墳時代後期の建物跡が調査で検出されており、居住空間と墓域の関係でとらえられる。
奥字丸山の独立丘陵の上にある41丸山古墳群は、古墳時代前期から後期にかけて築造された。古墳の形式、埋葬施設も多様な様式をもった貴重な古墳群である。四獣鏡、内行花文鏡、車輪石、鉄製の武器類や農工具類などが数多く出土した。主墳である1号墳(前方後円墳)は極めて正確な測量と設計にもとづいて造られており、四世紀末にこれだけの墳墓を構築することができる政治的、経済的権威をもった首長が出現していたことと、高度の土木技術のあったことがうかがえる。このような力をもつことは当地方で最も早く水稲耕作が始まり、肥沃な水田地帯として農耕が発達した地域であることと無縁でない。

古代 古代の遺跡は古墳時代以前よりさらに増加し、周辺地域の開発が進んだ。加古川流域の沖積地(応地・草部・梶∴石屋・井原等)での遺跡は古墳時代とほぼ同じだが、牧山川流域では2富田遺跡、3若林遺跡、16小新屋遺跡等町西部の谷部にも遺跡が存在し、開発が進んだ状況がわかる。篠山川流域でも谷川・金屋・篠場・青田・下滝の各遺跡に古代の遺物散布が集中している。また、井原・梶・村森・谷川で、字名に条里の名称があるが、これらが古代まで遡及できるかどうか定かでない。
古代、和田・小川地区は井原郷、上久下・久下地区は栗作郷と呼ばれた。井原郷は平城京跡出土木簡に「氷上郡井原郷上里赤損米五斗上五戸語了身」と記されている。井原遺跡群付近では奈良時代の軒丸瓦が確認されている。丸山古墳の南麓で採集された鋸歯文緑八菓蓮華文軒丸瓦で、加古川市野口廃寺出土例と同じ型と確認されている。この瓦は播磨地域でしかみられなかったが、今回の出土で丹波地域まで広がっていたことがわかった。
また、39B井原法ゲン経散布地で奈良時代の土器とともに、ひとがた人形木製品も出土しており、奥・井原付近に奈良時代の寺院跡か公的な施設の存在の可能性が強く、律令的な祭祀が行われていたと考えられ、当地が公的な場所であったと推測される。
39C高良田遺跡では古墳時代後期から飛鳥時代の掘立柱建物跡が確認され、さらに谷川の73A六反坪遺跡で古代の柱穴跡が検出されている。また、73B生田遺跡では、県内でもまれな和同開珎五枚が入った和三彩の壷が出土していて、これらは当地方が中央政権と関連していたことを示している。

平城京跡出土木簡に記してある「氷上郡井原郷上里」の郡・郷・里の行政区分は715年に定められたもので、井原郷は佐治川を挟んで西(和田地区)を上里、東(小川地区と和田地区の一部)を下里としていた。「赤搗米五斗」は赤米が現在の約二斗貢納されたことを示している。丹波地方は奈良・京都に近く、古代皇室領(栗作保は禁裏御料) や社寺領、摂関家領が多く、米のほかムギコガシ(はったい粉)、カチグリ、ヤマノイモ、野菜、油、ウルシ、また桶、杓などを貢進していた。さらにこの地方の栗、松茸、豆類は京都で珍重されていた。
養老令で「50戸をもつて里となす」と定められ、当時の一戸は20〜30人の大家族で50戸は約1000人になる。この里を里長が治めた。村の人々の移動を取り締まり、農業をすすめ租税の徴収にあたった。「上五戸語了身」の語部はその土地の伝承を語り伝えることを職掌として朝廷に服属の関係をもった人々(部民)のことで、和田地区に居住していたことを物語っている。
栗作郷の名の示すとおり、上滝には、老夫婦が旅の用明天皇に栗を献じたという栗にかかわる伝承がある。また丹波栗を貢進するために置かれた部民がいたと思われる記述が「山科家礼記」などにみられる。
丹波は古来、奈良、京都から山陰・山陽を結ぶ要衝であり、川が南北に流れ、標高100m前後の平地の分水界によって、南北の交流が容易で瀬戸内文化と日本海文化が入りやすかった。そのため早くから中央との関係が生じ、仏教や文化の伝播が早かったといえる。それは、伝承とはいえ石龕寺(599年)、常勝寺(648年)、山本仏光寺(806年)、也足寺(949年)などの創建、高座神社・狭宮神社の創建などにみられる。
水清く土は肥え、穀物が豊かで上質であるためか、この地方は平安時代以降しばしば主基御料に選ばれた。また京に近いので皇室領(栗作保は禁裏御料となっていた)あるいは社寺領となっていた。
大嘗祭(天皇が即位した後の最初の新嘗祭のこと)に用いる神饌料の米や粟を耕作献上する悠紀・主基の斎田が選ばれる。主として悠紀は東国、主基は西国から選ぶ慣例になっていたが、後に悠紀は近江国、主基は丹波国または備中国から選ばれている。なかでも丹波氷上郡は十数回選ばれている。
ただ、斎田の場所は不明であるが、大嘗祭に際してつくられた大嘗会屏風に、斎田の地元名所を詠進した歌が残されている。
○承保元年(一〇七四) 大嘗会屏風
君が代はしづのかど田にかる稲も
たかくら山にみちぬべきかな 匡房
○天仁元年(一一〇八)大嘗会屏風
たかくらの山のふもとの里なれは
つみおく稲のかずも知られず 匡房
中世のふるさと
鎌倉・南北朝時代
鎌倉幕府による全国支配機構が整えられている時代、山南町域も武家による土地管理を受けるようになった。承久3年(1221)、承久の乱によって敗北した朝廷方の所領は幕府の御家人に恩賞として与えられた。関東から栗作郷(上久下・久下地区)の地頭として久下直高が来住した。玉巻城を本拠に久下一族は地域支配を継続拡充していった。この時代、当地方の豪族が主体となった戦いはあまりなく、城も街道を監視する機能が中心で、居館とは別で非日常的な施設にすぎなかった。当時の戦いも騎馬戦が中心であったので、玉巻城でもかなり低く、曲輪も不明瞭で、その後の城郭とはおもむきを異にする。
鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて、京都を中心とした争乱に当町は直接関係するようになった。それは当町が京と中国地方を結ぶ街道沿いに位置していることから、中央政権と密接な関係をもったことによる。とくに足利尊氏・義詮は南北朝の争乱や観応の擾乱に際して玉巻や石龕寺に逗留したという記録があり、当町と足利幕府との関係は深かった。元弘三年(1333)篠村での尊氏の呼びかけにこたえ久下時重が一族を率いて一番に馳せ参じた話はよく知られている。また、金屋の十三塚のいわれや、井原の足利橋(二重川)、金屋近傍寺のいわれ、岩屋のててうち栗のいわれなどなど、足利尊氏父子にまつわる伝承が多い。
当町には、常勝寺や石龕寺のように平安・鎌倉以来隆盛の寺院があり、仏教は広く信仰されていたと思われる。そしてまた、平安時代から南北朝時代までの文化財が多く残されている。その主要な文化財をあげると、常勝寺の十一面千手観音立像、薬師如来座像、岡本薬師堂の薬師如来座像、石龕寺の金剛力士像、扁額、金剛鈴、不動明王坐像、鰐口、和田親緑寺の阿弥陀如来立像、山本薬師堂の仏立像、太田慧日寺山門等がある。
室町時代
鎌倉時代より久下氏に対する足利氏の信頼は深かった。久下氏の檀那寺である石龕寺は足利氏の祈商寺となり、久下氏らは石龕寺の僧兵らの力を借りたことも考えられる。
南北朝時代は荘園領主の交替も激しく、当地方の勢力の動向も激しく変わった。
栗作荘は禁裏御料や天龍寺金剛院領また幕府領ともなった。これらの領家職地頭職を久下氏が代々引き継いできた。井原荘は皇室領である室町院領、昭慶門院領や天龍寺金剛院領、幕府領となった。

井原上荘(加古川より西の和田地区)は戦国時代からは和田之荘と称した。この地の市場村(牧山川より南)付近を領有していた和田日向守は、市場村を牧山川の北に移転させ、市場の名を和田と改めさせ、蛇山山頂に岩尾城を築いた。井原下荘(草部・福田・小川地区)はもと高階家領であったが、一四二一年幕府は細川持春に知行させた。後に和田日向守が領した。和田日向守の領した郷柑は和田町、北和田村、大内村 (応地)、小野村、草部村、小新屋村、梶村、前川村、野坂村、奥村、井原村、村森村、小野尻村(若林富田含む)、小畠村、西谷柑、中間村(山本)、片山村(山本)、五ケ野村、坂尻村の一九か村三七五〇石である。
足利幕府と共に栄えた久下氏は幕府の衰退とともに衰微した。久下氏は栗作荘を本拠に二二か所も領していたが、直轄領が少なく遠隔地には代官を置いて年貢を取り立てていたので、幕府の権威が衰えると、遠隔地の荘園はその地の豪族などに横領された。また領地であった石戸山を新屋庄の名主百姓に売り渡している。本拠の栗作荘の領家職も不法に横領されたりした。 皇室領荘園内の総社として、禁裏御料栗作保に高座神社、室町院領井原荘に一の宮神社がある。 三代将軍義満以後当地方では大きな戦乱もなく過ぎたようだ。義満を支えた執事 (管領) 細川頼之は永和元年(一三七五) 特峰妙音のため、太田横山に慧日寺を建立した。鎌倉・室町時代に入ると仏教が広く信仰されるようになり、一般民衆のなかへも念仏信仰が広まり、民衆らの手によって野辺に石仏が祀られ、石貪寺の住僧らの先達によって熊野詣りも盛行した。足利幕府の政治的軍事的衰退にともない久下氏の勢力も衰退していった。下剋上の風中世の城舘潮が高まり、この地方も群雄割拠の時代となった。旧山陰道の関連道が町内を東から北へ、播磨街道が南に走る。陸路だけでなく、加古川、篠山川が流れて播磨平野を南下する。このような交通の要所であっただけに、数多くの城館が築かれた。

永正十三年(一五一六) 和田日向守は4岩尾城を築き、山南町西部を領していた。また太田では片瀬近江守が東山山頂に築いた96鍋倉城を本拠にしていた。61岩屋城ではそのころ広沢綱忠が居城にしていたという。71玉巻城の久下氏は衰退していた。群雄割拠の時代は戦いが多くなり、敵が近くに感じられると、本拠城を構えているだけでは
領域支配が困難な山間の地域であったため、さまざまな機能をもった城が築かれた。36番守寺山城は西に加古川、東に山裾が迫った場所にあって、街道が城と山の間の鞍部を通る典型的な街道監視の城である。また、71玉巻城の東は90池ノ谷主計屋敷(池谷裏山山頂)、86大河城、99西山城(畑内)、103篠場城、105下滝城があり、いずれも谷の入り口東側の尾根先端に位置して、東からの敵に備え、篠山川北の街道と川を監視していたと考えられる。8山端城(和田)や91杉ケ谷城はそれぞれ4宕尾城、96鍋倉城の出城で、街道や川の監視や連絡の役割をもっていたと思われる。78大森山城(谷川)、32至山城(井原)は街道監視の位置にある。そのほか小字名から館の存在した可能性のあるものに、42篠倉豊後守屋敷(奥)、望口同瀬氏屋敷(谷川)、97太田氏屋敷(太田)、88里京子佐渡守屋敷(大河)などがある。また阿草に「土居の内」「土居の下」といった館に関係した地名が残っている。
中世後期の 熊野信仰は、熊野三山、すなわち熊野本宮大社(本宮町)、熊野速玉大社(新宮市)、 熊野信仰 能州野那智大社(勝浦町)の信仰である。
熊野本宮の本地は阿弥陀如来で、平安末期ころから、この地を訪れると極楽往生が遂げられると信じられ、主に皇族や貴族が熊野詣でをしていたが、しだいに武士や農民たちも参詣するようになつた。また、もともと熊野は女性のけがれさえいとわぬことから、武士や下人の妻女や比丘尼なビ多くの女性も参詣した。浄土信仰が盛んになるにつれ、下層の人々も参詣し、「蟻の熊野詣で」という言葉さえ生まれた。しかし、能州野へ旅することは信仰の旅であって、大変な困難がともなった。ふつう、熊野へ参詣するとき、参詣者(檀那)は在所で先達の指示に従って精進潔斎し出発した。先達は檀那の遣中道案内や宿泊などの世話をした。熊野に着くと先達は祈頑や山内案内をする御師あてに壇那の住所氏名、自分の住所氏名、提出年月日を記した願文を提出した。
石龕寺の先達たちが大峰山(奈良県)修行をして熊野に詣でたり、檀那を導いて熊野詣でした願文が熊野本宮大社文書に32点現存している。
近世のふるさと
織豊時代
天正3年(1575)明智光秀の丹波攻略が始まると、八上城主波多野秀治、黒井城主荻野直正らとともに、反織田勢力の一翼を担っていた山南町城の各城は明智方の軍勢を迎え撃った。この合戦の余波で常勝寺・慧日寺などが兵火に罹った。天正6年(1578)の合戦で、太田鍋倉城(城主は片瀬近江守とも太田大和守ともいう)は落城した。天正7年玉巻城(城主久下重治)、岩屋城(城主広沢綱忠)、岩尾城(城主和田師季)のいずれもが、播磨より進攻してきた丹羽長秀軍によって落城した。丹波攻めの三たびにわたる合戦によって、石龕寺・慧日寺・常勝寺・石蓮寺をはじめ町内の多くの社寺が焼失し、多くの文化財が失われたことは惜しまれる。
落城後の四城は荒廃にまかせられたが、天正14年(1568)秀吉配下の佐野下総守が岩尾城主となって来住し、岩尾城の修復再建を行った。現在確認できる岩尾城の総石垣部分はこの時期の改修とみられる。

行政単位としての村
文禄年間(1592〜96)、豊臣秀吉は前田玄以に命じて丹波の国を検地し、荘・郷・保等の名称を廃し、村を行政上の単位として取り扱うようにした。町域の当時のは村は、次の一庄一町一二村であった。 和田之庄・谷川町・阿草村・上滝村・下滝村・長野村・太田村・大谷村・大河村・池谷村・玉巻村・岡本村・金屋村∴岩屋村
正保年間 (1644〜47) では山崎村が金屋村の支村となって分かれ、和田之庄は、村森村・井原村・奥村・梶村・前川村・北和田村・和田村・小新屋村・小野尻村・小畑村・西谷村・仲間村・片山村・五箇野村・坂尻村・大内村・草部村の17か村となった。慶安元年(1648)、織田信勝は和田・前川・野坂・岩屋の四村の領民に新田開拓をさせ、慶安4年(1651)に完成、中村(南中)ができた。万治元年(1658)草部村より福田村が独立した。元禄年間 (1688〜1703)野坂村が奥村の支村として独立した。また、元禄8年(1695)下滝村より青田村(篠場を含む)が独立した。
(附記) 明治初年大河村より畑内村・北太田村が支村として独立し、また明治15年 (1882)青田村より篠葉(場)村が、明治16年(1883)奥野々村が池谷村より独立した。明治20年ころ福本村(旧仲間村)と片山村が合併して山本村となった。幕末のころから小野尻村を小野尻・富田・若林の三村に分ける運動をして、やっと大正末期に実現した。明治22年町村制が施行され、従前の村はすべて大字となった。但し集落名を表す村名の「村」は大正3年(1914)まで使用された。例えば小川村之内井原村が大正四年から小川村井原となった。
集落別にみた石高・領主の変遷
文禄4年(1595)の「氷上郡村高辻帳」によって、山口右京が領有していた山崎村以東の各村と岩屋村は石高がわかるが、村森村以西の各村は文禄四年まで佐野下総守が領有していて、石高は不明である。( 〜1595)を中心に秀吉は全国の検地を実施した。これを太閤検地という。
その内容は、@六尺三寸を」山間とした間竿で土地の面積を測る、一間四方を一歩、三〇〇歩を一反とし、町・反・畝・歩の単位を使用、A地目を田・畑・屋敷とし、等級を上・中・下の三段階とし、特別に下々もつくる、B一反当たりの収量で土地の生産高を査定する、C柑の境界を明らかにする、というものである。これにょって年貢を徴収する土地台帳となる検地帳がつくられた。正保年間(1644〜47) の石高は文禄のころの石高とあまり変わらない。検地帳は村ごとに作成され、年貢の徴収は村全体が責任をもつ
ことになり、年貢の出せない農民の分は村役人(庄屋等)が取りかえてでも出していた。
延宝六年(1678)ころに実施された検地では、間竿の長さを六尺に短くした。当然、畝歩(面積)が増え村高も増えた。不備であった山の検地も実施して山手米(銀)を徴収した。
納税の仕組み
年貢は田畑屋敷山林などに賦課され、米または銀などで納める。延宝検地の後は田畑を上ノ上から下ノ下までの九等級に分けた。各村へ年貢取り立ての告知書である免状割賦状が毎年10月に領主から交付される。しかし災害などによって田畑が流されたり、減収したりして生産量は一定しない。したがって、3〜5年の課税額の平均をとって、それを課税する定免(一定の年貢率)の法が行われるようになった。
検地により決められた田畑の生産量を「高」といい、災害で耕作不能の田畑の分を控除して、その残高に対して年貢率が定められる。税率は 「免三ツ九分六厘」すなわら39.6%で、これが年貢米として貢納される。また畑の多い地方では米納の十分の一を大豆納にすることが認められている。開拓直後の田畑は「見取」と低率にしてある。
田畑・屋敷・山林・薮に賦課される以外に、桑役・茶役・栗役・山椒役・漆役なども小物成として賦課される。口米・口銀は年貢取り扱い上の費用や役人給にあてられる附加税のことである。時代が進むにつれ、領主の支出は増大し、いろいろな手段で税収の増大をはからねばならなかった。領主は領民に新田開拓を奨励し、特産物の開発、生産拡大に力を注いだ。
小物成等からみた村の産業
鶴牧藩の「丹波御領分様子大概帳」によれば、各村とも男は農業のほかに農閑期には薪を伐って売る。自家消費もあるが、柏原や和田の町へ売っていた(大河村・五ケ野村)。また鍛冶炭を焼いたり(片山村)、柴の灰を京の染物用に出した(和田村・片山村)。牧山谷を中心に岩屋付から野間谷までの各村では氷こんにゃくが作られ、京大坂へ多く出した。とくに牧山谷の氷こんにゃくは良品で、諺に「箱根御関所も丹波氷蕗萌無切手に通る」という(和田村・小新屋村・五ケ野村など)。
また、草部村を中心に、材木を買って筏に組んで、加古川を下り高砂へ行く者も多かった。年にょっては西宮方面に出かけ、米つきに従事する者もいた。
一方、女性は各村とも木綿を織り、蚕を飼ったりした。このように領民たちは時代の進展にあわせ、換金性の高い商品開発に力を入れた。商品経済が発達してくると、米価は下がり収入減となり領主の財政は苦しくなった。かといって米の年貢を多くすることは領民の抵抗が大きい。したがって財政を切りつめ、開墾や水利を改善し収量を増やしたり、特産品の開発や増産を奨勅したりして、税収の増大をはかった。
この地方の特産としては、古くから栗・柿が有名で、京大坂でかなりの評価を得ていた。栗は古来、栗作郷の名の示すとおり各地で栽培されていたが、ことに岩屋村・小新屋村、久下谷の村々が多く産し、なかでも岩屋村のててうち栗は有名である。柿は久下谷の村々、小川の各村で産し他地方へ販売した。また干し柿(串柿や吊し柿)にして販売し、久下(公家)柿の名で知られた。一方、牧山谷六か村では桐を産し名木として京に知られた。池谷柑の朝倉山椒も五郎兵衛が手びろく扱っていたので山椒五郎兵衛と呼ばれ、山椒太夫の出身地にされたりした。金屋の煙草栽培も知られていた。
化学肥料のなかった時代、田畑の肥料の主役は山林の柴草であった。柴草を早く刈ると量が少ない。遅らせると肥効が小さく適期を失する。それで肥草を刈りはじめる日を各村で協定していた。刈りはじめる日をめぐつての紛争もあった。
近代の山南町
明治期の山南町
自由民権運動と山南町
丹波新聞社刊『氷上郡政界物語』により、丹波地方の自由民権運動についてみていく。氷上郡の政党活動が表面化したのは、明治15年(1882)からである。中央で立憲自由党(板垣退助)、立憲改進党(大隈重信)、立憲帝政会、保守中正党が誕生し、氷上郡でも改進党(飯田三郎)、保守中正党(田艇吉)、自由党(植木致一)などが結成記念式をあげた。しかし自由党、改進党と名称は異なっても、その政党理念はひとしく自由民権を縦糸とし、その行き方に差があるだけで政見に大差はなかった。だから政党の移動も問題にならなかった。これら政党運動に参画している人はほとんどが資産家と呼ばれる人々であった。
板垣退助に師事し、自由党のため全国遊説した女流弁士岸田俊子(のち中島湘園と呼ぶ、豊岡出身)が明治十六年四月に和田、柏原、成松などで演説した。ときには文金高島田、緋ちりめんの着物に黒ちりめんの帯という濃艶な姿で、自由民権を訴えた。岸田の人気はすばらしかったという。
明治十六年の秋、自由党総裁板垣退助の丹波入りも大変なさわぎだった。「板垣来郡」の貼り紙がいたるところに貼り出され、若衆が太鼓をたたいて芝居のふれよろしく叫び歩き、和田や成松の演説会場は立錐の余地がないほどの盛況であった。氷上郡への案内役は和田の植木致一であった。板垣の旅のつれづれを慰めようと、郡内の同志が和田で猪狩りをやったところ、大物一頭を射とめ板垣を囲んで舌鼓をうち、杯を傾けて自由民権の気炎をあげた。そのとき板垣は、「海のない丹波へはじめてやってきて、みんなのような熱烈な同志と心を一にして国家のため尽すのは本懐の至り。殊に諸君が元気いっぱい猪を追われたが、その勢いは丹波健児の面目躍如、かかる勢のおもむくところ大猪を射とめた。これは今野党である我々が官僚を射落し、やがて政権がわれわれの手にくる瑞祥であると述べた。
自由民権の自由党・改進党は藩閥政権に対抗する国民本位の立憲民主体をつくろうとしているので、政府の弾圧は厳しかった。ついに明治17年自由・改進の二党は解党した。明治22年憲法発布、23年帝国議会開設といった情勢を反映して、明治21年10月飯田三郎を頭領に氷上郡改進党(同志会)が発会式をあげた。久下の中川幸大郎も幹部として参加した。翌22年11月、田艇吉を盟主とする益友会(中正党)が誕生した。23年1月にはその発起人会が開かれ、町域では西垣円次郎・村上嘉左衛門・廣瀬梅太郎・和田弥吉・酒井友輔・横尾幸八・瀬川半造らが出席している。これらは地主階級で、子飼い勢力を結集して2月17日厄除け大祭の日に柏原で発会式(参会者千余人)をあげた。氷上郡自由倶楽部は明治23年4月に発足した。発起人は植木致一らで村上八兵衛・前川恒治・植木伝右衛門の名も見え、各村の名望家を網羅している。さらに23年5月保守党も発会した。
明治23年7月1日、第一回衆議院議員選挙が施行された。衆議院定数300人、選挙人資格は1年以上在住し直接国税15円(当時の米価石6円30銭)以上納める男子とされた。当時のわが国の総人口は4,007万人余で、そのうち有権者は45万3,000人余であったから、わずか人口の11%の人にのみ選挙権があった。開票は旧柏原高女で行われ、自由党の法貴発が当選した。次点は田艇吉であった。ところが法貴発が急逝し、明治24年1月の補欠選挙で自由党に移った田艇吉が当選した。以来、田は4年4か月衆議院議員として活躍したのち、政界を退いた。
自由党と改進党が合体して憲政党になり、明治31年8月の総選挙で和田の植木致一が当選した。在任2年10か月で、官界で鳴らした田健治郎に議席を譲った。
神社の合併
明治維新政府は王政復古と祭政一致を基本方針とし、神仏分離、神社の国家管理、神道の国教化を進めた。当時全国には約19万の神社があって、多様な祭祀を営んでいたが、政府は皇祖神を祀る伊勢神宮を神社の本宗とし、仝神社をその下にビラミッド型に編成し社格を定めた。神職は官吏になる。そのため神社を整理統合する必要があった。明治39年(1906)の政府調査では全国で19万3000社、当時の大字は18万であるので一集落に一社平均であった。これを明治末年までに11万社に整理された。
昭和20年(1945)、太平洋戦争終結後の調査では20万6000余社で、国家管理は廃止された。翌21年2月からは宗教法人神社本庁として再出発し、8万700余社が所属した。また、合併はしたがその後集落の事情もあって、もとの神社を復活して祀る集落もあった。
大正・昭和前期の山南町
大正末期の大正13年(1924)5月発行の「氷上郡霊場写真案内」(氷上郡霊場案内社発行)村のすがた から、現山南町の上久下・久下・小川・和田の各村の村誌などを参考にして、大正末期を中心とした山南地域のようすをみてみよう。
◇ 山南部における事業地の久下谷
「久下谷」とは上久下・久下の総称で、東西約3里(12km)の細長い地形である。山紫水明、景勝の地が多く、清冽な久下川(篠山川)の流れと鉄道を中央にして、その両側にのどかな農村が散在している。下滝・谷川両駅に近く、交通に恵まれている。また農耕地は砂質壌土多く良質の久下米の産地として知られる。とくに酒米の産地として有名であり、″公卿泉″ の村上酒造(下滝)は安政6年(1859)に郡内最初に酒造業をはじめている。
また苗木の栽培に適し、良質の杉・檜の苗木の生産地として知られている。特産物として木材・檜皮・石材・柿・赤味噌などがあり、なかでも「久下柿」は色つや味の良さは他に比類なく、京阪地方の」市場において別格の扱いを受けている。
下滝駅の東南隣に立つ高櫓は高田俊蔵商店の丹礬注入工場で、逓信局ならびに諸官庁御用達として、電柱その他の用材を供給している。また同駅前に大正10年設立の丹波檜皮株式会社(初代社長村上雅司)がある。同社取り扱いの檜皮は品質最良で檜皮業界における生産販売の王座を占めていた。広田の友井氏が明治23年に京都御所御常御殿の屋根葺き替えを行って以来、檜皮屋根葺き請負人として名声を高め、信濃(長野県)の善光寺、讃岐(香川県)の金刀比羅神社、大阪の住吉神社、西宮戎神社をはじめ各地の有名神社仏閣の屋根葺き替え工事に従事し、現在(大正末期) 出雲大社の葺き替えを請け負っている。その円熟した技術は定評がある。ほかに檜皮葺き・こけら葺き・土居葺き請負業友井長次郎、神社仏閣槽皮葺き請負業・屋根板製造販売業中西徳三郎がいる。
下滝駅前は近年著しく商店が増え、町並みを形成している。なかでも日用雑貨・洋反大物商の人形屋は大商店といえる。
福知山線中最も多数の乗降客と貨物のある谷川駅はにぎやかで北播通いの自動車や馬車などの交通も頻繁である。谷川の町端までは新開地を通るようなもので、最近は鉄道の便を利用して、事業を企てる商店や熱心に勉強する商店も少なくない。例えば、谷川駅前では、谷川運送店(鉄道省承認)、萬年楼(旅館、料理、汽車自動車待合所)、丸屋(料理並びに御支度処)、谷川の町では中川正直堂(百貨店並びに仏具一式、順礼みやげ物いろいろ)、藤本正順堂 (表具師並びに表具用品一式販売)、福栄堂 (饅頭、学用品、玩具、マッチ等)、糸新(旅館、料理)、久下洗染店(京染、洗はり、ゆのし、西洋洗濯、毛織物色アゲ)、丹波製粉株式会社 (寒梅粉製造販売)、田村醤油店 (醤油、味噌、味噌漬)津瀬時計店(時計、眼鏡、万年筆、蓄音機、レコード)などで、いずれも正確、親切をモットーにしている。
田村醸造の醤油は日本醸造協会主催の酒醤油品評会並びに博覧会に出品して賞牌、賞状を受け、繁盛している。製菓原料寒梅粉製造元の丹波製粉会社は、不断の努力で声価をあげている。商業の繁栄、事業の振興によって旅館・料亭の繁盛も自然の勢いで、駅前の萬年楼・丸屋、谷川の糸新がはやった。
久下谷は民党の重鏡中川幸太郎を筆頭に村上雅司、大志野事大郎、山内喜誉治、田村新之助ら地方政界の大立者や実業者が少なくない。近く播丹鉄道延長工事で西脇−谷川問が完成し、この地方の発展に資することと期待されている。
◇ 丹波栗の本場小川村
小川村は谷川駅と和田の町との中間に位置し、田畑は比較的広く、農業が盛んである。また副業や商業も発達している。この地域は昔から丹波栗の本場として知られ、また日本三所の一としての毘沙門天王を祀る景勝の地である。
岩屋の和田勝次郎は祖先伝来の勝栗製造に従事し、特有の風味のある製造秘法で声価をあげている。氏は栗に関する知識と経験が豊富であるので、かつて綾部で開催された果実品評会に栗部の審査委員となった。そして、酒井茂雄、和田仁三郎、酒井雅治の三人とともに特選最良の栗苗の栽培に努力し、好成績をあげ、丹波栗の本場として声価を高めつつある。
岩屋の酒井農場に飼養する乳牛の優良であることと行き届いた設備はすでに世間に知られているところで、福知山支店・石生支店・畢井支店をはじめ各地に取次販売所を設けて販路を拡大している。
右の二人をはじめとして時代の進展に適応して活躍している人は、中岡光治(材木売買並びに土木建築請負)、酒井茂雄(履物卸商)、D酒井雅治(日用百貨、線香問屋)、足立兼次(呉服大物卸商)、依藤丁心堂 (表具師、提灯商) などがある。
◇ 信仰に燃える和田の町
政界にその名を知られた植木致一・野添宗三の両人を出した和田地域は、また実業家としてひとかどの成功を遂げた人々も少なくない。丹波製糸の本場である草部の製糸家はしばしば経済変動に悩まされ、浮沈の瀬戸際をゆくことが多かったが、奮闘を続け、現在では年中製糸工場の煙突より黒煙が上がり、汽笛の音を山野に鳴りひびかせている。この地域の実業団体の中心的人物は、若林喬介・中西仁作・小林城太郎・垣内三之介・前川安太郎・有田利書・広内清二・広内宇兵衛・稲継喜代治の諸氏で、店舗の改善と内容の充実をはかった。当地域は播州街道の咽喉部にあたり、昔から著名な宿場町、市場町であって東西に通ずる一筋道の両側に軒を並べた各商店はほとんど萬屋式に品物を取りそろえ、活気ある商いぶりに客足も繁く、他より入り込む商人も多く、車馬の交通も頻心緊である。毎日数回谷川駅と柏原駅から自動車が運行して旅客その他に利便を与え、旅館・料理屋の応接も親切ていねいで、四外楼・横山亭・しほ屋・赤松旅館・はりま屋などの旅館、料亭がある。
和田地域の特産物には、丹波栗の苗木、製茶、薬用サフラン、生糸、綿糸、木材、製薬などがあげられる。中岡商会の栗苗木は西谷の山奥に本拠を構え、全国へ売り広めている。この辺二帝に栽培する薬用サフランは有利で年産額10万円以上という。製薬では牛馬の妙薬五積散・赤重丹・鬼印虫おろしのような特産薬草を加味したものは、原料を精選し、特効薬として効能が大きいとの信用を高め全国に特約店を設置して販路を拡張している。そのほか生糸・綿糸・煉瓦などいずれも特色あるものとして好評である。
約20年前(明治末期)の和田では広大な茶畑があったが、時移って茶園は桑園と化し、製茶業者は養蚕家となる傾向にある。佐治銀行・大志銀行・信用組合等の金融機関は、その任務をつくして、一般の利便をはかっている。
徳岡隆祐は同志とはかって氷上郡八十八ケ所霊場創立を思い立ち、多年の願望を達成した。以来当地の大師信仰が盛んとなり巡拝かたがた特色ある信仰の町和田を訪れる人が多くなり大師土産や詠歌用鈴など奉仕的に安売りする弘栄堂、和田名物まんぢゆう製造の奥村商店などの薄利多売が喜ばれている。和田の町は、泉屋呉服店(呉服大物卸小売)をはじめ前川安商店(呉服太物、雑貨各種、嫁入道具卸小売)、鉄屋(日用品雑貨)、有田利商店(呉服大物雑貨商)、萬屋雑貨店(雑貨、蚕具商)、安達一貫堂(文房具、日用雑貨、売薬)、有田竹材店(竹尺生地製作並びに竹材売買)、藤原政吉商店(履物)、亀屋菓子店(菓子製造卸小売)、西山商店(和洋菓子、農産物種子各種)、小林城太郎商店(生糸、製茶、本練絹糸、糊引糸、その他製造卸)などによって活況を呈している。
和田村には竹林多く、その質優良で灘方面酒造界の酒樽の綻用として重宝されている。また、特筆すべき特産は小畠商会の釣り針である。林愛太郎商店の糸物・半襟・組紐卸や林菊治商店の小間物・化粧品卸とともに、行商と通信販売で手広く販売している。
[参考] 和田地域の年中縁日(旧暦)
1月19日 厄除け大祭
1月21日 初大師
6月 7日 牧山神社砥園の夏祭り
6月12日 前川の薬師祭
6月25日 和田天神祭
6月26日 梶の川裾祭
6月28日 応地の川裾祭
7月17日 小新屋の観音祭
7月21日 大師の盆祭
10月15・16日 各神社の秋の例祭
3月21日・10月21日 山本薬師堂の大師祭
大正13年の大字魃
大正13年は初春のころから雨が少なく、梅雨期に入っても雨が降らず、いよいよ 田植えの時期となって井堰担当人は早くからその処置に注意を払い、堰止め漏水防止に努めた。それによって比較的水量が多く、6月19日に山崎耕地に配水し、翌20日より植え付けを開始し、7月3日関係区域の植え付けを終えた。担当人は昼となく夜となく水先に付ききりで、過剰配水の生じないよう気をつけ、一日も早く降雨のあらんことを神に祈り、あるいは葦火を焚いた。しかし少しの降雨もなく河水は日一日と減っていった。6月22二日以来上久下・久下・小川・和田の各村長及び同村内の井堰担当人は、「多紀郡吹揚水機使用制限誓約書」にもとづいて交渉にあたった。 6月24日井堰貯水量は2寸ほどの増水を見た。降雨のないのに増水したので不思議に思ったが、これは谷川井堰の漏水によるものであった。井堰関係の耕地は植え付けをしたが、溝上は植え付けできない状態なので、担当人は協議して7月4日5日溝上の植え付けがすんでいない田で井堰溝に沿った田に限り、替桶で潅漑することを許可した。共存共栄の趣旨にそった担当人の処置は、一般に賞賛された。その後も降雨がなく、一時増水の喜悦は瞬時で、河水の減少は甚だしく、河水の制を取り各落としごとに潅漑人夫を配置して字書が甚だしいものから配水した。井堰の水はますます減り、策つきて井堰の上流谷川井堰までの川掘りをして地下水の引用に力を注いだ。折しも7月25日かなりの夕立があって、一時愁眉を開いたが、焼けに焼けた地では河水は増えず、川掘り、溝さらえなど集水に努力するがまったく河水は渇れて、今や人力揚水しかだめとなった。折から上流に揚水発動機を使用して河水を揚げる者がいたのですぐに郡吏員の出張を請い、中止をさせた。ここにおいて各関係部落より一人ずつ臨時委員を選任し、次の処理を協定した。 1.8月14日午前6時より足踏水車6輌を以て揚水する。
1.各落としの時間
山崎10、ごら落とし22柳落とし26、その他20、岡花落とし14、塩屋24、権花16、稲木ノ本20、鋤ノ先10、マガリキ18、片郡14、上森14、新段落とし5、深ノシロ13、中畷13
1.担当人及び委員の任務分担(○担当人、△臨時委員)
人足廻し○岩屋 酒井巳之助 △和田嘉次郎 川掘○奥 萩原藤三郎 △笹倉吉 大郎 水先○野坂 依藤節太郎 △依藤健二、水路○村森 藤本幾太郎 △深田 重三郎 発動機○和田 荻野太市 △井原 後藤庄三郎、事務会計○井原 後藤 繁蔵 ○山崎 服部円二郎
8月14日、6両の水車をつらねて10分間交代で昼夜の別なく揚水したが、河水の減少は甚だしく、一昼夜でつぎふみにしなければならなくなり、急きょ大阪へ出かけて六吋ロータリーポンプを購入、発動機を借り入れ、人力と機械で揚水する。枯死せんとする田面に切り流しの方法で潅漑した。
この間に、井原閏田・落合・掛越付近に三十余か所に井戸掘りをして揚水した。
九月十一日に至り、待望の雨が沛然として降るがこれも十分ではなく、人力と機械力で揚水をしたが、ようやく降雨が続き安心できるようになった。井原井堰区域は円満に配水ができ、上流・下流の別なく二割くらいの減収にとどまった。収穫皆無でないかと予想されていた大旱十害もみんなの力で防ぐことができた (『小川村誌』第一集より)。
この年、播丹鉄道 (現JR加古川線) が谷川まで開通した。
『久下村誌』によると、この大正13年の早魃では、収穫皆無の田もあり、一分作、二分作、三分作の田が沢山あった。旱害地免租となった者266人、この田1340筆で面積66町4反9畝17歩であった。地価2万7401円で、地租638円を免ぜられた。村では7月27日村会を開き、兵庫県旱害救援資金3万円を借り受け、信用組合自彊会に転貸して救済事業を行わせるため起債の案を立て、これを可決した。
昭和恐慌と救農土木事業
第一次世界大戦の影響を受けた大正好況期の反動として押しよせた昭和初期の大恐慌は、農村を極度に疲弊させ、都市には失業者をあふれさせた。大正好況期にはみじめな存在であった教員も、安定した職業として羨望の的となった。したがって師範学校への入学志願者は激増したという。恐慌によって地方財政が極端に悪化し、町村予算も約4割減となった。役場職員の給料1割寄付もあった。当然教員(小学校)も1割寄付となつた。昭和7年ころ和田尋常高等小学校に勤務していた教員が次のように述べている。
先ず昭和7年頃は、どんな時代であったか。浜口雄幸内閣の金解禁政策に伴う一大不況時代であった。農村は極度に疲弊し、不況の嵐が吹きすさんだ。政府は農村振興対策と銘うって、農村救済のため全国津々浦々に土木事業をおこした。和田村もその例にもれず、船戸橋から井原橋に至る間、約1kmの佐治川堤防改修の一大土木事業と取り組んだ。梶部落の西端に”加古川上流改修工営所”といった工事事務所が設けられ、村内の屈強な男子は、連日堤防づくりのトロッコ押しに出役した。当時の賃金は日当60銭、熟練した人夫は65銭、現場主任は70銭から75銭。これは当時としては渇望の現金収入であり、農家の経済をうるおしたものである。一方女性も動員された。牧山川から堤防用くり石を
車力に積んで運んだものである。その車が十台二十台と列をなして学校の前を通るのを窓越しによく見たものだ。村財政が窮迫していたので、万事緊縮を旨として運営されたと思う。当時教員の給料は全額村費で支弁されていた。少しでも村財政に協力するという意味で給料の1割を寄付することになつていた。給料日には″使途指定なき寄付金″と書いた領収書とともに一割天引した俸給を受けとったものである。
前述のように、昭和7年農村不況打開のため、政府は3か年計画にもとづく農村救済の土木事業を起こすことを決定し、河川改修、産業道路の建設を各地で実施した。同年十一月永年懸案の佐治川及び加古川上流改修工事が着工したのもその一つである。11月5日小川・和田・黒田庄の三か村が中心となつて、佐治川・篠山川の合流点で起工式を挙行した。好天に恵まれ、小川・和田から7台の屋台太鼓曳き山のほか装飾船を川に浮かべ、神戸より呼んだ漫才を行い、「集まる人2万数千人、山といわず、道路といわず人の山」と当日の盛況ぶりを伝えている。工事は井原橋より上流梶字状山(船戸橋の上)までと、これに付帯して岩屋谷川の下流付け替えが行われ、木造井原橋は鉄筋コンクリートの橋に架け替えられた。翌昭和8年井原橋より下流、篠山川との合流点までの延長工事が行われた。
さらに梶より上流稲畑付近まで工事は延長され、見田井堰改築の大工事も施工され、昭和10年度に第一期工事は竣工した(『小川村誌』参考)。
『久下村誌』の昭和8年度の記録によれば、当時は農村不況で村内に生活困難な人々が多く、その救済事業として土木事業を県費補助により起こした。その主なものは、金屋橋と世花橋を鉄筋コンクリート橋に架け替え、池谷井堰復旧(コンクリート造堰)、山田川堤防復旧(四か所)、村道谷川金屋線改修、村道谷川裏町線の改修、岡本林道改修などである。村民はこれを”昭和八年の救済土木事業”と呼び、これにより村内の道路は面目を一新し、狭い野道のような村道は自動車の通る立派な道路となつたとい、つ。
農業恐慌の中で、全国の農村から政府・国会に向けて農村救済を要求する請願運動が発生し、地主団体も救農土木事業を含む時局匡救政策を要求した。これを受けて政府は救農土木事業を中心に農村負債の整理等を含む時局匡救政策を立案し、国会は議決した。同時に政府は農民の自力によって農村経済の再建をはかる農村経済更生運動を呼びかけた。
『小川村誌』第一集(昭和十三年発行)によると、「小川村では昭和9年、県より経済更生指定村に指定され、その更生を奨励された。また昭和13年には農山村経済更生計画特別助成町付に指定され、一層奮発して、更生計画を進めていった」としている。小川村は昭和4年段階でも他町村民所有地が田で40町9反、畑で2町3反、山林で116町3反あった。その後買い戻した土地は、昭和12年末で田10町9反、畑で1町1反、山林で11町2反に達している。村民の負債貯金の総額差引額は昭和5年で21,263円が、昭和12年で45,791円と減少している。
昭和4年10月ニューヨークの株価暴落から生じた世界恐慌の波と、金融恐慌のあと浜口雄幸内閣が断行した金解禁による不況とが重なり、昭和5年はわが国が不景気のどん底に追いこまれた年で、大正末期より下落を続けた農産物価格はさらに急落した。
以下小川村産業組合の記念誌によると、昭和5年は主産物である米作、養蚕とも好成績をあげたが、農産物価格の惨落で農村の収入は激減した。折から郡内銀行の支払い制限により年末取引に一大支障を来した、とある。
翌6年1月4日柏原合同銀行の預金取り付け騒ぎが発生し、同月12日同銀行は支払停止をして休業した。続いて戌辰銀行も支払停止、休業の措置をとった。以来郡内の各産業組合と両銀行との協議が続けられた。その結果、昭和7年末、柏原合同・戊辰の両銀行との預金に対する協定により、産業組合は預金に対する欠損金を決め、組合総会に承認を求めた。小川柑産業組合の場合は表のとおりである。
各村の産業組合の決算状況は、右の欠損金を含め農村不況を示したものとなつた。
小川柑産業組合の場合 (昭和7年度決算)
一、参万壱千弐百九拾四円弐拾五抜 本年度総益金
一、四万七百五円九銭 本年度総積金
差引金 九千四百拾円八拾四銭也 欠積金
右は特別積立金より補填することを承認した。
昭和8年、財界の不振はやや好転したが、楽観を許されなかった。幸いにも、村当局の斡旋で加古川上流改修工事ほかの土木事業への就労により、余剰労力を消化し、当時
では最高の人夫賃が支払われた。 小川村での特別助成による経済更生計画事業の主なものを挙げると、次のようである。
@昭和12年共同管理開墾として南中部落が開墾し桃園を造成した。
A同年に南中部落に共同作業場を設置した。
B昭和11年に岩屋部落が椎蚕共同飼育所を設置した。
C煙草栽培が奨励され、栽培農家が増えた。
D自給肥料増産奨励(堆肥舎設置) と有畜農業化を進めた。
E共同販売として昭和9年10月ニタリ柿を集出荷した。小学校講堂で、柿2000貫(八トン)を焼酎詰めにして出荷した。 入札価格は一貫(4kg)当たり20〜25銭であった。
Fこうした事業とともに社会教育面もとり上げられ、全村教育と称して講堂で成人教育が実施された (昭和9年以降年一、二回)
昭和10年不振の経済界は徐々に好転し、農産物価格も回復しっつあった。こうしたなか、昭和12年に日中戦争が勃発した。経済更生計画も推進されたが、消費節約、物資統制、貯蓄報国、国民精神総動員など、いつとなく戦時色が強められていった。昭和14年は紀元二千六百年記念の諸事業がとり行われ、時代は大きく変わろうとしていた。
15年戦争下の山南町
戦時体制の強化
昭和6年(1931)9月の満州事変の勃発は15年戦争の序幕となり、そして昭和16年12月太平洋戦争に突入した。緒戦の戦勝は国民をわかせたが、あいつぐ敗戦で昭和20年8月無条件降伏した。 その間、国内は昭和13年の国家総動員法の発動によって、資源の統制がなされ、戦時体制は日一日と強化され、人も物も戦争にかりたてられた。壮丁はつぎつぎと召集され、残る者の中からも徴用(男性)、挺身隊(女性)と戦場に、工場に、炭鉱へと動員された。学生たちも勤労動員へ、幼い学童たちも食糧や薪炭の増産にかりたてられた。昭和13年6月綿製品の販売禁止でスフの時代がはじまり、昭和14年の米穀配給統制令によって供米制度が実施された。
昭和15年の七・七禁令で、「ぜいたくは敵だ」と指輪、ネックレス、ネクタイピンの追放がなされた。また食糧は増産のかけ声も空しく労力、農機具、肥料の不足で減産となった。米麦を生産する農家さえ、甘藷、馬鈴著、南瓜、はては山野に食料をあさり、三食の雑炊は空腹の一時しのぎに過ぎなかった学校の校庭は児童の集合場所だけ残して掘り返され、いもや豆などの作物畑と化した。児童は乾草つくり、薪炭づくり、松根掘りにもかかわった。軍需資源の金属回収は火鉢、置物などの家庭用品、神社の釣り鐘、学校の銅像にまで及び供出対象となった。
生活必需品の配給と衣生活
昭和18年より23年ころまでは、すべての物資を統制し、最高販売価格を定め、これをマル公と呼んでいた。物を買うには米穀通帳、衣料切符といった切符制と、指定商店、人員登録などの登録制により、隣保長、部落会長、村長の証明する煩雑な手続きを必要とした。統制品は売ることも買うことも自由にできなかった。そのころの生活必需品配給状況(成人一人当たりの基準量) の例をあげると、・主食 米または麦一日2合3勺、また年齢により少し減らされ、労務者、青少年には少量の加配があった。農家は一人一年間に米1石3斗1升の保有ができた。
・衣料1年間60点とし、品物により点数を定め木綿物1反12点、絹物1反25点であった。しかし品物が不足していた。生まれてきた子どもにはとくに120点、嫁入りには180点が与えられた。
・調味料 [塩]月に2合。漬物時だけ特配、家畜用として別に配給があった。[砂糖]月に半斤、菓子がなく、甘いものを欲しがりサッカリン、ズルチンを使った。[醤油]月に3合(少ないとき1合5勺) [味噌]月に50匁(増量された)
・嗜好品 [酒]配給なし。但し正月にお神酒として一世帯3合。結婚、葬式、応召には証明により特配1升。農家へは年2、3回一世帯当たり5合特配。[煙草]男女とも一日25g。 品物が乏しくなるにつれて、その品質も低下した。例えばマッチの軸木につけるパラフィンの欠乏から硫黄を代用していたので火つきが悪かった。靴も牛皮は軍需となるので豚皮や鮫皮を使ったので弱く、衣料品もスフ・人絹が多く洗濯に弱い。食糧も甘藷・じゃがいも・高梁・とうもろこし・大豆を代用、ひどいときは大豆柏であった。魚肉はほとんどなく、農村では野菜はあった。野草をすすめられたが、食べられるものは案外少ない。 そのころ都市から農村へ食糧買い出しに多くの人が来た。暮れ夜ひそかに裏口より入り、無理に頼んで少量の食糧を入手する。これをヤミといった。配給食糧も遅配が起こる。生きていくためには心ならずもヤミに走らねば
ならない。もとより配給量だけでは栄養不足になる。栄養失調者、やせ細った人がたくさんいた。
昭和16年12月太平洋戦争となって物資の欠乏が著しくなり、ついに男子国民服が制定となつた。色は軍服と同じ国防色とし、開襟の甲号型と詰め襟の乙号型の二種とし、帽子、脚絆も同色で、そのまますぐに戦場に参加できるようにした。
愛国婦人会等婦人団体の集会は衣装の競争会になりがちとなり、困ったすえに会の制服ができた。紺サージの事務服が制服に定められた。会合には必ずそれを着て集まることに定められ、強力な指導のため全国的に普及し、都市も農村も女性は事務服一着だけは持つことになつた。日中戦争が起こり、大日本国防婦人会が結成され、いろいろ銃後活動をしたが、その服装に白いエプロンに「たすき」をかけることになった。戦時中日本女性は一人残らずエプロンを持たねばならなかった。敗戦ののち国防婦人会は消滅したが、エプロンは残った。「もんペ」は東北・信越・関東方面で常着または労働着として着用していた。戦時活動服装として西日本一帯へもすすめられて着用するようになった。女性はだれも一枚や二枚は作った。冬は暖かで夏も裾の乱れもなく活動的である。見た眼は美しくなくともだれもが着用すると着ないではいられぬ。下半身のもんペに村し、上半身用の「上っぱり」は筒袖仕立てで腰のあたりまでとし、布も少なくてできる。戦後もんペは女の労働着となり、もんペをやめても「上っぱり」は残っている。
千人針出征兵士が、母や妻、柿妹や恋人から無事帰るようにと心をこめて贈られた千人針を腹に巻いていると弾丸が当たらないという言い伝えがあった。布はさらし木綿並幅で
長さは鯨の三尺二、三寸のものを使用する。単に腹を巻くだけのものは二つ折りとして1000個の留め針をした。また物入れを兼ねた胴巻にするものは、布二枚に1000個の留め針をしたものを二っ折りとして胴巻に仕立てた。糸は白糸か黄糸を使い、布には1000個の印をつけ、1000人の女性に一針ずつ留め針をしてもらう。頼まれた人は武運長久を念じつつ一針ずつ縫い1000人目の最後の留め針は出来れば五黄の寅の生まれ歳の女性に留めてもらった。五黄の寅は最も運勢が強いと信じられていた。また、弾丸除けの呪いに(さむはら)の字を書いた。出来上がると神社へ持参し、祈願をして社印等をもらった。出征兵士への最上の贈り物として明治のころから作られていた。
終戦直後の山南町
終戦の混乱と占領下の改革
日中戦争、太平洋戦争は多くの人命と財産を失わせ、国民に耐乏生活を強い、塗炭の苦しみを与えた。思想は混乱し、物資は欠乏、物価は暴騰するなど国民は激変した社会情勢、経済状態に喜んだり、戸惑ったり、前途に不安をもったりした。初めて敗戦を経験し、外国軍隊の進駐をみて、報復されないかとの心配もみんなにあった。東京などを中心に「町の人々は不安でたまらず、とくに女の人たちは家財道具を背負って逃げ仕度です。人心は動揺しています。どうしたものか……」と案じ、また「米軍が進駐してきて危ないということで女子どもたちで京都を逃げ出したものが多かった……」と。こんな話が口コミで流され、不安は広がった。だが到着した進駐軍もさしたる事故もなく国民の不安動揺はやがて治まった。だが、何よりも食糧難をどう切り抜けるかが大問題であった。こうしたなかで、占領軍は日本の軍国主義、超国家主義を一掃し日本社会経済の民主化を進めるため、次のような制度改革に取り組むよう日本政府に指示した。
◇ 選挙制度の改革=首長公選に
昭和22年3月の公職選挙法改正により、年齢満20歳以上の男女に選挙権が与えられることになつた。同年4月5日に県知事並びに村長選挙が施行され、はじめての公選首長が決まった。ついで4月20日参議院議員、4月25日衆議院議員、4月30日村議会議員の各選挙が施行された。
また農地調整法により、一反歩以上の農地を所有耕作する成人と同居する配偶者並びに親族(成人)らによって、農地委員を選挙するようになった(昭和21年12月施行)。
その後昭和23年11月に県教育委員が選出され、同27年11月町村の教育委員会も発足した(10月に選挙)。
◇ 農地改革=地主制度の変革
昭和21年12月に農地調整法が再改正され、併せて自作農創設特別措置法が制定され、農地委員会が設置されることとなつた。農地委員会委員は小作・地主・自作が、五・三・二の割合で選出され、農地委員会を中心に農地買収など改革が進められた。不在地主の所有地や在村地主の所有する小作地で平均1ヘクタール(氷上郡は50アール)を超える分は強制買い上げし、これらを小作人に売却した。買い上げ値段は一反歩につき最高700円、最低350円(この年の供出米の買い上げ値段は一石70円)とし、買い上げ代金は農地証券で支払われた。こうして全農地の46%を占めていた小作地の80%が解放され、全農地の90%が自作地となり、残る10%の小作地の小作料も低率で金納となつた。
◇ 学制改革=六・三・三制
昭和22年教育基本法・学校教育法が公布され、小学校6年、中学校3年の義務教育となった。各村は中学校の教室をとりあえず各小学校の空き教室や旧高等科教室を使用した。上久下・和田両村は単独校とし、久下・小川両村は組合立とし山南中学校を谷川野田に設置することにした。戦時中、小川小学校は登戸研究所(爆薬関係の軍需工場)に講堂等を、上久下小学校は西宮甲陽金属工場に講堂等を使用され、校舎の内外とも荒廃していた。したがって、小学校の教育現場の整備も急がれていただけに、村の負担は大きかった。
終戦直後の物資欠乏の時、しかも建築材料はすべて統制下に置かれ、現品の入手には時日を要した。また昭和21年の金融緊急措置令によって、建築資金運用が困難となり、小川小学校講堂等の建築は一時見送られた。インフレで物価は高騰し、山南中学校の場合建築費は国庫負担は約一割で、住民負担は一戸平均440円にのぼり、大変な負担となった。この校舎の完成は昭和23年10月であった。
◇ その他の民主化措置
昭和22年5月3日、日本国憲法が施行され、それと前後して諸改革が進められた。昭和21年3月の労働組合法の施行によって雇用並びに労使関係の民主化、すなわち労働者の組合結成の自由、団体交渉権、ストライキ権の保障がなされた。同22年4月には地方自治法が施行され、官僚的中央集権が改められ地方制度が民主化された。同年10月国家公務員法が公布、また同月刑法が改正され、12月には民法(「家」制度廃止」)が新しく施行された。
終戦直後の生活
戦時中は戦費調達のため、国は貯蓄債券・国庫債券等を発行し、不換紙幣が乱発された。これにより戦後は通貨の異常膨張、物価の高騰、生活資金の引き出しが行われた。
これを防止しようと、昭和21年2月金融緊急措置令が出され、すべての預貯金が封鎖された。これにより世帯主は月300円、家族は月100円以上貯金の引き出しが認められず、月給は500円までしか現金で支払われないことになつた(この措置は昭和23年2月解除された)。戦時中は、諸物資の需給は辛うじてなされていたが、終戦直後は海外からの復員、引き揚げによる人口増加もあって物資の欠乏、特に生活必需品の窮乏、そして悪性インフレと大へんな事態となつた。「たけのこ生活」「かすとり密造酒」「買い出し」「モク拾い」といった言葉が当時の世相の一端を物語っている。宝くじにも、入手困難な生活必需品が景品としてつけられた。例えばせっけん・タオル・地下タビ・タバコ・サッカリンなど。また昭和24年ごろから、名古屋をはじめ各地にパチンコが流行しはじめた。子どもの遊びが大人の遊びになつてきたのは、景品のためでもあったのだろうといわれた。