『漢方の里さんなん』のむかし話
阿草の石ぼとけ
むかしの話です。阿草村にも暑い夏がやってきました。
「ことしは、から梅雨やないやろか…」
「そうや、田植えが心配や、阿草川に堰をしとかな、あかんのう」
阿草の人たちは土嚢を持ち寄って川に水をため、助けあって順番に田植えをすませました。でも、その後雨が降りません。田の稲は枯れそうになりました。みんなは青柴を持ち寄って高い山の上で焚き火をしました。でも雨は降りません。そんなある日のこと、旅の坊さんたちが峠を越えて阿草にやってきました。
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」
と家々を拝んで回りました。ちょうど昼食時、田の畦で五兵衛さん親子がご飯をたべていました。「坊さんたち、この陰で休みなはれ、お茶と芋がありますさかいに、たべなはれ」坊さんたちは喜んで、お茶や芋を食べました。
「なむあみだぶつ、ご恩返しに五兵衛さんの願いごとをかなえましょう。おっしゃってください」
「願い事でっか。うん、あかんやろうが…田に水がどっさり欲しいやけど」
「そうですか。水を進ぜましょう」
そう言って坊さんたちは、あちらこちらへちらばって行きました。やがて一人の坊さんが石ぼとけをかついで帰ってきました。そして川上にある五兵衛さんの田の畦に、その石ぼとけを祀って、
「このほとけさんの足さきをこすりなさい。水が湧き出ます」
と言って坊さんはどこへともなく立ち去りました。五兵衛さんは半信半疑でほとけさんの足さきをこすりました。すると、どうでしょう。どくどく…と清水が湧き出ました。五兵衛さんの田はすぐ水がいっぱいになりました。そしてとなりの弥吉さんの田だけでなく、阿草の田はどこもいっぱいになりました。稲はぐんぐん育っていきました。
それを知った峠の向こうの村人たちは、この石ぼとけがほしくなりました。それで深夜こっそりと石ぼとけをかついで帰りました。そして山裾にお祀りして、
「石ぼとけさん。どうか田に水をどつさりください」
と言って石ぼとけの足さきをこすりました。ところが、一滴の水も出てきません。怒った村人たちは鍬や棒で石ぼとけをなぐりました。そのときです。
「コラッ、バカモノタチ、水ガホシケリャダシテヤル……」
石ぼとけの足さきから、どんどん水がわき出て、みるみるうちに村は水びたし……
「ごめんなさい。ゆるしとくんなはれ」
と謝った村人たちは石ぼとけを阿草のもとのところへ返しました。
ある年の洪水で石ぼとけは流され、石ぼとけという田の名だけ残りました。
牧山の牛岩さん
むかしのお話です。
牧山は三方山に囲まれて、その西の谷に牛が寝ているような大きな岩がありました。牛を飼っている村人たちは、この岩を「牛岩さん」と崇めて牛が元気に育つように祈っていました。
遠くからやってきた牛買いが、
「ここの牛は山を歩き回っているので、足腰が強いが、やせているので肉がかたい。肉のおいしいのは峠のむこうの牧野の牛や。ここの子牛にあのおいしい草をたべさせたらいいんだがなあー」といいます。牧山の人たちもそう思っているのですが、牧野の草を食べさすなんか、昔からやったことがないのでアカンと取りあげないのです。ところが、子牛の世話をしている牧山の子どもたちは、「牛買いの言うとおりや。父ちゃんたちに内緒で僕たち子どもどうしで相談してみよう」とある日こっそり峠を越して、牧野の子どもたちに出会いました。
「それ、賛成や、こっちの牛は足毎が弱いので山で鍛えたいと思っているんや」「よし決めた。朝暗いうちに子牛を峠まで連れてきて取り替えつこして、世話をしあい、昼寝時にこっそり達れ戻すことにしよう」と決めました。そんなことを知らない親たちは前より朝早くから子牛の世話を熱心にするようになった子どもたちをみて喜びました。
このことがあってから何年か経ってある日、いつもの牛買いが牧野にやってきました。「近ごろ牧山と牧野の牛は評判が良くなった。子どもたちが互いの子牛を昼に取り替えっこして世話しているからや。子どもたちはよいと思ったことはどんどんやるので頼もしい」ところが、それを聞いた牧野の親たちはびっくりしました。
「子どもたちが親に相談しないで、勝手に子牛をとりかえて世話してるのか。えらいこっちゃ。うーん。いまあそこで草を食べているのは牧山の子牛か。そうだ。牧野の草を食べて大きくなっているんだから。あの子牛は牧野のもんや。つかまえろ」
とうとう牧山の子牛たちはつかまってしまいました。
ああ大変なことになった」
牧野の子どもたちは、牧山にとんで行って知らせました。
牧山の子どもたちはすぐ世話をしている牧野の子牛を連れて、牧野の人たちにあやまりましたが、聞いてくれません。困った牧山の子どもたちはとんで帰って親たちに話しました。
『えらいことになった。お前たちが勝手なことをするからや。馬鹿者めが……」「よしっ、こうなったら負けられん!子牛を取り返しになぐり込もう」「いやいや、まてまて、困ったときは牛岩さんにたのんでみよう……」そこで、牛岩さんにお供え物をして拝みました。すると、その夜のことです。どっどっどっと牛岩さんの大きな足音がして子牛たちはめーめーめーと鳴きながら、各々の牛小屋に帰ってきました。「ああ、よかった、よかった」と牧山の子どもたちはほっとしました。
井原のあさねのもり
むかしの話です。
井原の人たちは働き者で、それぞれ草を刈ったり、田を耕したりしました。田植え前になると朝早く起きて仕事をはじめます。父さんたちは牛に鋤をひかせて土を耕し、母さんは田の水が漏れないように畦をぬります。田ごしらえが終わると、助けあって田植えをします。母さんたちは一日中働き、歩けないほどくたびれます。家に帰っても炊事や洗濯などの仕事があり、皆が寝ても仕事着のつぎあてもします。こんなに仕事の多い母さんたちはゆっくり休めません。それで若いのに婆さんのような顔になる人もいました。
そのころ、井原の田のなかに森がありました。森のなかに広場があって小さな堂と畑がありました。あるとき、旅の坊さんが井原にやってきました。「変だなあ、子どもの数が少ない。そして元気がない。これはほっとけない」と思った坊さんは村人を堂に集め、「この村は生まれる赤ちゃんが少をいようだ。若いお母さんの顔色がよくない。働きすぎて弱っているようだが、どうだ」「わしら無理せんとゆっくりせえと言うんやけど、嫁は働きもんで……」と、ばあさんが自慢しました。「うん、わかった。それから肉や魚を食べているかい」「そうや兎、鶏、鯉なんか食べるが、正月や節句の時だけや」「それから海の塩からい魚や昆布などを食べているかい」「いや、それはだめだ。海から遠いし、高いので、減多に買えへん……。それからあの塩坪の塩をわけてもらえんやろか」と老人がいいました。
塩坪というのは、お宮さんの南にある塩水の池で、高貴の人のみが使用するので、いつも番人が見張っていました。
「よし、わかった。元気な子どもは村の宝だ。元気な子どもを沢山生まなあかん」と父さんたちがいいました。村中みんなそうやと思いました。坊さんはほっとして、「よし、じゃまず赤ちゃんをお腹にもっている若い母さんたちは、この森の堂でのんびり暮らすことにしたらどうや。森の畑で母さんたちは野莱を作り、ゆっくり朝寝し、おいしいもんをたべたら……」坊さんの言葉に村人はみんな賛成しました。
「これで安心、私は都へ行き塩坪の塩水を分けてもらうように頼んでみよう。浜辺の寺に魚や昆布のことを頼んでみよう」と、坊さんは約束して旅に出ました。このことがあってから、おなかに赤ちゃんがいる母さんたちは森の堂に集まって暮らすことになり、元気な子どもが沢山生まれるようになりました。だれが言い出したのか、この森を「朝寝の森」というようになりました。この森はその後開墾され田になって、いまはありません。
大河のよめがばし
むかしの話です。
篠山川の流れる大河(集落名)に板橋がかかっていました。その板橋のつけねの穴に狐の親子が住んでいました。この狐たちは夜中に村の人が大切にしている鶏や鯉を盗むので嫌われていました。
ある日狐たちが穴で昼寝をしているとき、子どもたちが石で穴の入り口をふさぎました。狐たちは困って鳴き騒ぎましたが、だれも助けにきません。
この村に毎日板橋を渡って仕事に行くお光ちゃんがいました。『きゃん、きゃん、お光ちゃん助けて」と狐たちが頼みましたが、以前に鰯焼きを盗まれたことを思い出し、知らん顔していました。
三月が経ちました。狐たちは弱り切って声も出せなくなりました。心のやさしいお光ちゃんはとうとう夜中にこっそり狐の穴へ行き、石を取りのけてやりました。穴から出ても狐たちは歩けません。お光ちゃんは食べ残しのご飯や魚の骨をもってきてやりました。
このことを知った村人の中には悪口を言う人もいましたが、お光ちゃんは狐の喜んだ顔を思い浮かべてじっとがまんしました。それから何年か経って、お光ちゃんの嫁入りの日になりました。お光ちゃんの家は貧乏なので、ふだん着のまま小さな風呂敷を背負った母と板橋にきました。すると狐たちが待っていました。「この前のご恩返しです。花嫁衣装とかごを用意しています。さあ遠慮はいりません」「狐さんたち、おおきに……」
お光ちゃんは嫁入衣装を着てかごに乗りました。そのころ、村人も起きてにぎやかなお光ちゃんの行列を見送って、しあわせを祈ってくれました。
このことがあってから、この板橋を「よめがばし」と言い、嫁入りの時は橋を渡ってしあわせを祈ったそうです。
思案桜と身投げ石
観応二年(1351)正月京の戦いに敗れ西へ逃れた足利尊氏・義詮父子は丹波で別れ、義詮は岩屋の石龕寺へ、尊氏は姫路へ逃れました。義詮の側妾は主君の後を追ってひそかに京を脱出し井原荘までやってきました。至山の麓の堤の桜の下で、主君は丹波か播磨かいずれの路をとられたのであろうか、どの道を行こうかと思案しきり。それでその桜を思案桜と名づけました。
ところが、追っ手が間近に迫ってきたようなので、側妾は捕われてはずかしめを受けるくらいなら、自ら命な立とう絶とうと、川べりの岩の上から佐治川に身を沈めたと言い伝えています。思案桜はその後、小桜が植えられていましたが(道路改修の際切られ、身投げ石もわからなくなってしまいました。でも、出合い公園の桜がこの話を伝えてくれましょう。
無慈悲の河原と根笹
むかし、えらい坊さんが牧山谷を通られるとき、小川で洗濯をしている老婆を見かけました。のどが渇いていた坊さんは老婆が洗濯している上流で、水を手ですくって飲もうとしたところ、むさくるしい姿の旅僧をいやがった老婆は「水をくむな!」と断った。旅僧は飲めない水なら流す必要もなかろうと、錫杖で流れを突かれたところ、たちまち水は錫杖がつけた穴から吸いこまれてしまいました。牧山川は以来、枯れ川となりました。
ついでえらい坊さんは、年寄りのお百姓さんが畑の根笹を一心に掘りとつているのを見かけました。お百姓さんは旅僧の姿を見て、もう日暮れが近いことだし、一夜の宿をしてあげましょうと家へ招きました。旅僧はその好意を大へん喜び、
「根笹がはびこって困っているだろう。この根笹がなくなるようにし、子や孫たちも助かるようにしましょう」と言いました。以来牧山の畑には根笹がないと言い伝えられています。
鞍が渕と雨乞い
上滝の説宗寺の薬師堂の本尊薬師如来の縁起によれば、早魃に苦しむ里人の願いをいれて、一遍上人が鞍が渕の岩頭に端座して龍王に南乞いの祈願を厳修し、早魃から村を救ったと伝えられています。
これとよく似た話が柏原町下小倉にありますので紹介します。
下小倉にむかし石門寺という尼寺があり、本光さんという尼さんが住んでいました。ある暑い夏のこと、何日も雨が降らず、稲は枯れそうになりました。村人たちの苦しみのようすを見て、本光さんは村の若者のかつぐかごに乗って柏原川を下り、水のたまっている所を探しました。でも柏原川には水一滴もありません。佐治川に出て、佐野のくりかけ渕に行き、八大龍王の化身を求めましたが、見えません。それで井原の出合まで下り出合の深渕でも探しましたが、見えません。とうとう篠山川をさかのぼりました。すると、大へんな旱天だというのに、きれいな水が一ぱいたまっている所がありました。土地の人は鞍が渕という深い渕だといいます。本光さんは雨が降りますようにと一心に祈りました。ほどなくして本光さんは「おられた、おられた、皆の衆あの姿が見えんか」と言われたが、だれもポカンとしているので本光さんは、「あの大きな緋鯉が見えんか?」と言われた。本光さんは心眼に龍王の化身を受得して瞑想読経しきり。「サァこれで十分お願いしたから皆の衆急いで帰ってくれ、途中で雨に遭うかも知れんから」。復路は山道の篠場坂。石門寺にたどり着くと待望の雨、雨。
それからは雨乞いには鞍が渕参りを行なってきました。明治十六年の早魃にも八月二日に鞍が渕参りをしたと記録があります。
本光さん在世中は、雨乞いの立願に屈強の若者が本光さんをかごに乗せて篠場坂を越えたようですが、生前本光さんが自分の姿を石工の難波金兵衛に刻ませ、死後は雨乞いの際には鞍が渕にこの石像を沈めよと言ったとか、またこの石像に水をかけれぱ雨乞いの勤めは済むとか言い伝えている。
大くも川と鞍が渕
篠山川は少し前まで「おおくも川」と呼んでいました。
篠山川上流の市野々という村に、八幡神社があります。その社の裏のほら穴にむかし、大きな蜘蛛がいたそうです。その大ぐもは沢山家来を連れ毎夜田畑を荒らし回り、庄屋に毎年村の娘を差し出せと難題をふっかけました。村人の苦しみをみて薬師如来はそれを救おうと、大ぐもをほら穴から誘い出し、篠山川沿いに逃げる大ぐもを攻めたてました。鞍が渕までやってきたとき、薬師さんが放った矢が大ぐもの足にあたり動けなくなりました。 大ぐもは今までのことを謝り、加古川の方へ逃げて行きました。
大ぐものいた土地の名は「大芋」といい、流れている川を「大雲川」(大蜘蝶川〕とよんでいます。
手は宝
むかし、丹波の篠が峰のふもとに、その名のとおり一面に笹草が茂っていました。村人らが怠けて畑の草をとらなかったので、神様のおぼしめしで笹草を生やされたそうです。
村人たちも、これには閉口して、少しでも怠けると、すぐに笹草が伸びますので、今までのように、安閑としておれません。
そこでせっせと畑を耕しましたので、今では、ふもとの笹草はあとをたって、山の上だけ一面に笹が茂っています。
ふもとの村に、おたねという達者な婆さんがいました。息子の嫁と、毎日畑へ出て、草取りに糟出しました。
一枚の畑の草を二人で、何日もかかって、きれいに取ると、次の畑へ行きます。順番に三、四枚の畑の草をとると、また、最初の畑へ戻ります。すると畑はもう一面の草山になっています。嫁のおとよはこれを見て、畑に入る前から、
「アァ、これはもうどうしょうもない。これだけの草を取るには、また何日もかかることだろう」と、ため息をついていました。おたね婆さんが嫁をさとして、聞かせました。
「なあ、おとよ、おまえは初めから仕事の多いことばかり気にするから、心がにぶって、できることも、できなくなるんじゃよ」「でも、この草では、三日かかっても、取れそうにありません」「そう思うじゃろう。草取りちゅうもんはな、目でするもんじゃない。手を働かせて取らなきゃ、何日たっても取れるもんじゃないよ」「それはようわかっとります。だから毎日毎日一生懸命になって取っています。でもこう草が多うては……」「それ、それ、それがいかんのじゃ。草が多いちゅうことを最初に目で見るから、取らぬさきから、もうどうしょうもないと、おびえてしまうんや」「ほんなら、どないしますんや」「草取りちゅうもんは、下を向いてせっせと手を動かせばよいのや。自分の手もとの草だけ見て取ればよいのや。どんな仕事にも、あてはまることじゃが、“目はおくびょう、手は宝”ということじゃ」「よくわかりました」と嫁も納得がいきました。
小野尻の嫁入り峠
小野尻はむかし、丹波と播州の国境の街道の村として栄えていました。この街道は京都や姫路と結ぶ街道ですので、行ぎ交う旅人も多く、小野尻峠を越す人も多かった。小野尻の子どもたちは小野尻峠へ遊びに行き、峠の向こうの牧野の子どもたちともよく峠で遊びました。それだけに牧野と小野尻は嫁に行つたり、嫁に来たりして村人たちの行き来も多かったようです。そんなころ、小野尻の弥吉と牧野のこずゑが幼いころから峠で知り合い、よく遊びました。子どもながら結婚の約束のしるしにと、弥吉はこずゑに水晶を、こずゑは弥吉に赤いくしを渡しました。
年月は流れ、こずゑは美しい娘に、弥吉はたくましい青年に成長しました。弥吉はこずゑにプロポーズしましたが、こずゑは迷いました。それはこずゑの父と母がはやり病で亡くなり、おじいさんおばあさんに育てられました。ひとり娘のこずゑはおじいさんやおばあさんがお婿さんを迎えて跡拙ぎをしてもらいたいと願っていますので、弥吉のところへ嫁に行けません。
二人は話し合って、嫁入りしても弥吉がおじいさん・おばあさんの面倒をみる。こずゑもおじいさん・おばあさんの様子を見にゆくので結婚を許してくれと頼みました。
許された二人は結婚の日をたのしみに、牧野の思い出川にかかる思い出橋の上で話し合いました。むかしから多くの人がこの橋を渡って、丹波へ嫁に行き、丹波から牧野に嫁いだことだろう。この思い出川と思い出橋はこんな人々のいろいろな思い出を流したり、渡したりしたことだろうと二人は思いました。
やがて秋も深まり、結婚式の日になりました。こずゑの花嫁行列が組まれ、小野尻へ向かいました。ところが思い出橋まできたとき小野尻の人が来て、「今日の嫁入りはとりやめてくれ」あまりのことに驚く花嫁の一行に、「弥吉が急病で、今朝がた亡くなった。いろいろ手当てをしたが駄目だった。苦しい息の下で、"こずゑさん、こずゑさんと』と呼び、赤いくしをかたく握って死んでもはなしませんでした」弥吉の突然の死をしったこずゑは、その赤いくしは私のです。この弥吉さんの水晶と交換したものです。弥吉さん!わたしは弥吉さんのところへ行きたい」と、止めるのもきかず、思い出橋から増水している思い出川に、弥吉の水晶をしっかり持って、身を投げました。
思い出川、思い出橋には、こんな悲しい話を秘めています。それで人々は思い出橋を渡って嫁入りすることを敬遠し、そのころから小野尻峠でなく、嫁入り峠を越えて嫁入りするようになったといいます。
なお、牧野の思い出川の流路は現在の川とはその位置は替わっているようです。
栗と石の芋
京から西国へ向け丹波路を行く旅僧が、ある家の庭に実をつけた栗の木を見つけました。あまり食事をとっていない旅僧は空腹にたまりかねて、その家の老婆に、
「お見かけどおりの旅の僧です。空腹で倒れそうです。ずうずうしいお願いですが、この庭の栗の実を少しいただけませんか」と頼みま」た。老婆は心よく旅憎にたくさんの栗の実を与えました。喜んだ旅僧は、
「お婆さん、私のような通りすがりの憎に大変親切にしてくださってありがとう。お礼と言っては何ですが、この粟の木は、これからは大粒の実が三つずつ入っている毬をつけるようにしましょう」と言い残して立ち去りました。
それからは、毬に一つしか実らなかった栗の木が三つ大きな実をつける栗になりました。信心深い老婆は喜んで、空腹の旅人に栗の実を分けてあげ、みんなに喜んでもらったそうな。その旅僧は、相変わらず苦しい旅を続けていた。ある村に入ると,庭で芋を焼いている老婆に目を留めた。腹をすかした旅僧は老婆に少し芋をくれないかと懇願した。すると老婆は、「何言ってんだ坊様。私だって何も食べるものがないんだよ。私はね、死にたくないからこんな芋を食べようとしてるんだ。坊様にあげるような芋はこれぽっちもありゃしないよ」とつっけんどんに言い放った。この強欲な老婆にお仕置きをしようと思った旅僧は、「そんなに貧しいのなら、この畑に年に三度芋ができるようにしてあげよう」と言って立ち去った。言ったとおり老婆の畑では年に三度芋がとれた。でもその芋は煮ても焼いても食えない石のような芋ばかりであったそうな。
小新屋の観音さん
京都の梅ヶ畑から足の不自由な娘さんを手押し車に乗せて丹波路を西に向かって行く父親がありました。娘の足を治したい一心で旅に出かけたのです。
この娘さんは生まれてしばらくして母親を亡くし、父親の手で育てられました。もらい乳をしたりしていますが、父親は娘を家に残して野仕事などに励むことが多い。ある日おなかをすかし、父親を求めていた娘は突然倒れてきた道具の下敷きになり、以来娘は足が不自由になりました。何とかして娘の足を治してやりたいと父親はまわりの人に相談しましたが思わしくありません。あれこれするうちに丹波の小新屋の観音様のお力にすがってはどうかとの話を聞きました。
小新屋の観音様は西国三十三か所観音霊場めぐりの播州姫路の書写山と丹後の成相山との中間にあって霊場めぐりの道すがら小新屋観音に参詣する人も多く、近辺はもとより足の病にあらたかな御利益があると播州、但馬の方からの参詣者も多いのです。
昔、和田の里には蛇山に城をかまえた和田日向守がいました。外敵からこの里を守るため日向守はいろいろと悩み、寝つかれない夜もありました。ある夜日向守は城の向かいの石金山に紫煙がたなびき石舟に乗って千手観音が現れた夢を見ました。「長らく石金山にいたが、これより鍵掛尾の麓の清水を前にして私を祀れば子孫まで守護する」と千手観音から告げられた日向守は直ちに家臣に命じ、観音堂を造営し、観音様をお祀りしたのが、はじまりといわれています。
以来この和田の里の人々は厚く観音様を信仰し、病気やいろいろな悩みを治してきました。いつのころからか、足の仏様として信仰を集めるようになりました。
さて、小新屋へ向かって旅立ったものの、二人の旅は大へんです。平坦な道ばかりでない、京から丹波への山越え、天引峠などの難所も多い。でも心温かい丹波の人々のはげましで、親娘は和田の里までやってきました。小新屋の観音さんを大切にするこの里の人々は観音さんに参詣する人々を温かく迎えました。まして遠路手押し車に娘を乗せてやってきた父親、この二人に温かく接しました。観音堂を守っている人たちのすすめで二人は籠り堂で寝起きし、親切な村人の支えで一心に観音様に祈願しました。
何十日か経ったある日、父親はお堂の前の桜の木につかまって必死に立っている娘を見てびっくりしました。これまで何につかまってもひとりで立つことのできなかった娘が今、立っている。ありがたいことだ。観音様のおかげだと父親は感涙にむせびました。娘はひと切で立てた喜びと自信でさらにひとりで歩いてみたいと思いました。
「観音様、私に力をおかし下さい」
と念じていると、すうっと足やからだが軽くなったような気がしました。娘は木から手をはなし、一歩足を出し父親の方へ向かいました。
「観音様ありがとうございました。歩けます」
父娘はあまりのことに驚き、観音さんの霊験あらたかなことに感謝しました。娘の乗っていた手押し車は観音堂に奉納し、京都へ帰って行きました。