国県指定・山南町の文化財

 

[建造物]
国指定 [昭49.2.5]
友井家住宅 1棟
所在地 山南町岩屋 297
所有者 山南町  
管理者 山南町

 元禄年間に当時の阿草村年寄だった友井徳左衛門(四代)が、となり村との境界紛争の裁定につくし、円満に解決したのでお礼として阿草村民一同から贈られた家だといわれている。住宅は入母屋造.茅葺.妻入で縦割型の建物である。柱は栗材・梁は松材を用い、クギ類は一切使われていない、天井は竹の簀子張で、「えんげ」「おもて」はその上に約5cmほど土を敷いて防寒防暑に役立てている。昭和49年に住宅改築のため解体し、昭和52年に原状にもどし現在地に移築再建した。
[彫 刻]
国指定 [明44・4・17]
銅造十一面千手観音立像 1躯
所在地 山南町谷川2630
所有者 常勝寺  
管理者 常勝寺
 本尊仏で本堂に安置されている。
寺の開山である法道仙人の護念持仏を、頸に鋳込んでつくったのがこの観音菩薩像と伝えられている。
像の高さは58.2cm・台座14cm、厨子におさめられており、銅造ながら木彫における寄木造と同じように、手と胴とを別々に鋳造して取付けるという技法を用いているのは珍しい。
作風が繊細優美なこともこの仏像の特色といわれ、藤原時代末〜鎌倉時代初期の作であることをうかがわせる。
本像は秘仏で33年毎に開帳される。
[彫 刻]
国指定 [明44・4・17]
木造薬師如来坐像 1躯
所在地 山南町谷川2630
所有者 常勝寺  
管理者 常勝寺
 薬師堂に安置されているが、もとは奥の院の本尊仏であった。
寄木造・玉眼嵌入で像高77cm・台座34cm・光背126cm、一見したところは温雅平明であるが、その中にしっかりとしたものを感じさせる作風は、鎌倉時代に入ってから作られたことを示すものといわれている。
同寺は、大化4年(648)に法道仙人によって開基されたといわれ、天台宗延暦寺末の寺院である。
[彫 刻]
国指定 [大7・4・8]
木造薬師如来坐像 1躯
所在地 山南町岡本120
所有者 薬師堂  
管理者 岡本区
 堂は岡本平松山のふもとにある。縁起によると、もとは上岡寺といい、奈良時代に行基菩薩が丹波を巡錫したとき建立されたと伝えられている。
像の高さは83cm・台座は八角九重座で56.5cm・光背は118.5cm、寄木造で彩色してある。
藤原時代の作で、よく定朝風の特徴をしめている。
本像は秘仏で33年毎に開帳される。

[彫 刻]
国指定 [昭31・6・28]
木造金剛力士像 2躯
所在地 山南町岩屋2
所有者 石龕寺  
管理者 石龕寺
 今かりに阿形を見れば、太くつりあがった眉、血管の走る玉眼を見ひらき、怒りをこめて大きくあげた口、肩をいからせ、独鈷杵をかざして振り上げた左手、反動で力のこもった右手の指、ふまえた力足、すべてが一体となってぶつかってくるような圧迫感がみなぎる。
像高は阿形368.1cm・吽形371.2cm、衣文の刀法も簡潔ながら流動的である。
桜材・一木式・内刳り・玉眼嵌入・彩色をほどこす。奈良東大寺南大門の運慶.快慶作の仁王像に劣らぬ優秀な作品で、古くから運慶の作といい伝えられてきたが、大正12年に、2体とも胎内に墨書銘があることを発見、仁治3年(1242)の肥後法橋定慶の作であることがわかった。昭和32年に解体大修理が施された。

[民俗文化財]
国指定 [昭61・3・31]
十三塚
所在地 山南町金屋23
所有者 荒木良子  
管理者 荒木良子
 金屋カケジ山麓の通称寺坂の左側の緩傾斜地に、13個の石積墳が南北に連なり残っている。
中央の親塚が一番大きく東西3.7m.南北3.8m・高さ0.9mで、その南北両側に6個づつの小塚がある。
小塚はそれぞれ東西約1.8m南北1.8m・高さ0.4mで塚の中心間隔は約6.0m・全長は約73.0mある。
何の目的で造られたかは不明であるが、この道は岩屋石龕寺への金屋方面からの参道に当たっている。

[建造物]
県指定 [昭49・3・22]
薬師堂  1棟(付 棟札1枚)
所在地 山南町山629の1
所有者 延命寺   
管理者 延命寺

 桁行5間・梁間4間・寄様(四注)造・茅葺 薬師堂の創立沿革はあきらかでないが、現在の建物は、天和3年(1683)の棟札銘から応永2年(1395)に中興し、弘治3年(1557)に大修理を加え、承応2年(1653)・天和3年(1683)の両年にも修理を経たことが知られる。
一部仏壇廻りが円柱であるほかは、大面取りの方柱で、組物は舟肘木であるが、四隅の桁方向のみにそれを用いている。
このような簡素な建築であるが、そこに古制が偲ばれるし、舟肘木の型式や、柱の面の比率にもよく時代の特徴があらわれている。
側廻りの柱間が羽目板張であるのも、この時代特有の技法である。一方、材料が多く松材であるせいか、全体の意匠にやや洗練さを欠く感がある。
近年腐朽が甚だしく、昭和63年1月より解体修理を行い、平成元年1月に完成し、再建当初の姿に復原された。
[建造物]
県指定 [昭51・3・22]
高倉神社本殿 1棟(付棟札1枚)
所在地 山南町谷川3557
所有者 高倉神社  
管理者 高倉神社
 五間社流造・向拝一間唐破風造・絵皮葺高座神社は丹波国造の創立であって、その祖神高倉下命及び祖神に関係深い四柱の神を合祀し、もと村内金屋にあったのを、後年今の地に移したと伝えている。
現社殿は宝永2年(1705)の建立である。(棟札) 身舎正面桁行五間・梁間二間・庇一間の流造で、一間の唐破風造の向拝を付け、背面は柱間六間、屋根正面に双千鳥破風をおくという特異な形式をもっている。
周囲三方に擬宝珠柱付縁高欄をめぐらし、浜床を付属する。斗供は和様三手先(正面中央間は詰組形式)中備蟇股付、背面を除く斗拱部尾捶は龍頭に造る。
手挟.墓股、板支輪の彫刻や妻組の構成に17世紀に盛行した手法が駆使されている。
大工の棟梁は地元谷川の清水武右衛門で18世紀初頭の神社建築として県下において他に例のない貴重な遺構である。

[建造物]
県指定 [昭60・3・26]
慧日寺仏殿 1棟(付 棟札1枚)
所在地 山南町太田127の1
所有者 慧日寺  
管理者・慧日寺
 この仏殿は、桁行1間・梁間1間・1重裳階付入母屋造・桧皮葺、基檀の上に建ち、内部は壇敷き、礎盤は木製、柱は粽を有し台輪がある。
下層は詰組の変形で、柱上以外は入口中央部のみに斗拱もつ。出三斗・二軒繁垂木。上層は詰組.三手先・二軒扇垂木。扉は桟唐戸、花頭窓を左右の間に付ける。側面も正面と同じ。但し桟唐戸上部は正面は花狭間、側面は吹寄格子。欄間なし。飛簷隅木の遊離端はあまり下を向いていない。飛貫と頭貴の間に入口中央部だけに蓑束を用う。内部の天井は外陣化粧屋根裏・内陣は鏡天井で龍を画く。
しかし小建築のせいか鏡天井部が垂直に高くなっている。絵は、天井板に直接描いたものでなく、襖仕立てにして紙に画いてあるようで古澗上人筆と伝えている。須弥壇は唐様、勾欄親柱も開花運(逆蓮)である。檀上に釈迦如来坐像・普賢菩薩像(白像に乗る)・文殊菩薩像(青獅子に乗る)を安置。釈迦像は室町時代の作と推定され宿印仏師の作に近似する。後部外陣左側に中興別心和尚像が安置してある。元禄15年(1702)3月8日の上棟である。以上のように、この仏殿はほぼ完全な禅宗様(唐様)建築で、県内では稀なものである。

[絵 画]
県指定 [昭62・3・24]
絹本著色仏光国師像1幅
所 在 地 山南町太田27の1
所有者 慧日寺  
管理者 慧日寺

 絵は、縦103.2cm・横52.0cm。
仏光国師は、鎌倉円覚寺の開山で宋の人。
無学祖元と称し、慧日寺開山の師である仏国国師の師である。絵は室町時代に画かれたものと推定されるが、裏面に寛政12年(1800)に補修したという墨書がある。その時、画面も所々手が入れられているようである。
[絵 画]
県指定 [昭62.3.24]
絹本著色仏国国師像1幅
所 在 地 山南町太田127の1
所有者 慧日寺  
管理者慧日寺
 画幅は、縦102.8cm・横52.0cm。
仏国国師は、那須野の雲巌寺の開山で、高峰顕日と称し、夢窓国師や当寺開山の師である。室町時代の作と推定されるが、裏面に仏光国師像と同じ寛政12年(1800)に補修した墨書がある。画面には所々手が入れられているようである。
[絵 画]
県指定 [昭62・3・24]
絹本著色夢窓国師像1幅
所 在 地 山南町太田127の1
所有者 慧日寺  
管理者 慧日寺
 画幅は、縦105.2cm.横55.8cm。
夢窓国師は、嵯峨天竜寺の開山で夢窓疎石と称し、仏国国師に師事した。
その時当寺開山と兄弟弟子となる。
上部に賛があるが判読困難である。室町時代の作と推定されるが、裏面に亮氷元年(1848)に再表装をしたという墨書がある。
そのとき画面にも所々手が入れられているようである。
[絵 画]
県指定 [昭62・3・24]
絹本著色仏印心伝禅師像 1幅
所在地 山南町太田127の1
所有者 慧日寺  
管理者 慧日寺
 画は、縦103.6cm・横55.0cm。
この頂相は当寺の開山で、彫刻の開山像を参照されたい。
慧日寺にはもう1幅の開山頂相がある。
それは80歳で示寂した老年の開山の相を伝えるが、損傷いちじるしいので指定より除外されている。
この県指定の開山画像には上部に下記の賛がある。
開山の13回忌の康応2年(1390)に、夢窓国師の弟子で福知山天寧寺の開山である愚中周久禅師が書いたものである。
室町時代の作と推定されるが、これも裏面に夢窓国師像と同じ嘉永元年(1848)に再表装した墨書があり、その時画面にも若干手が入られているようである。しかしながら師資相伝の証として禅宗で尊ばれる頂相が4幅もそろって残ることはめずらしく、中本山の寺格を示すものである。
[彫 刻]
県指定 [昭44・3・25]
木造阿弥陀如来立像1躯
所 在 地 山南町和田1258-3
所有者 親縁寺  
管理者 親縁寺
 永正13年(1516)和田日向守斉頼が、石蓮寺(親縁寺の前身)を建立したが、天正7年(1579)5月、同寺は焼失した。
  その後、天正14年(1586)木戸十乗坊佐野下総守が和田領主となり翌年親縁寺として再建した。
  開基は、佐野氏実弟信窮和尚である。
  この像は、像高77.6cm・光背109 cm・台座50cm、来迎印を結ぶ阿弥陀像で、寄木内刳・玉眼嵌入・肉身漆箔・衣部は粉溜池に戴金あるいは盛上げの各種文様を描く。右足柄の外側に朱書銘がある。
  これによれば、像は貞和4年(1348)康俊によって修理されたことがわかる。銘にいう「湛慶仏」とは意味が明らかでなく、それをかの著名な仏師湛慶の作品とするにはためらわれる。しかし鎌倉中期の作とみることはでき、しかも修理仏師の康俊は、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した知名の人であり、彼に関係ある彫刻としても注目される。
[工芸品]
県指定 [昭37・7・16]
鰐 口  1ロ
所在地 山南町岩屋2
所有者 石龕寺  
管理者 石龕寺

 鰐口は、仏閣の堂前の軒にかけ鉦緒で打ち鳴らす仏具である。
この鰐口は、赤銅製で径27.2cm・重さ 5.35kgで足利尊氏が寄進したものと伝えられ、撞座が簡単な円座になっているので珍しく、銘文は銘帯の左右に刻んである。建武4年(1337)の製作である。
[工芸品]
県指定 [昭44.3・25]
石龕寺扁額 1面
所在地 山南町岩屋2
所有者 石龕寺  
管理者 石龕寺
 長方形の額面に布を漆ではり、肉太の草書体で「石龕寺」と陰刻している。
  四周の縁板は外方に開いてかすがいでとめ、蓮唐草紋を浮彫りにしている。寺伝によれば村上天皇が当寺の本尊昆沙門天を信仰し、多くの堂塔を建立された時、小野道風に書かせたこの額を賜ったという。
  当寺には仁治3年(1242)定慶作の金剛力士像が保存され、これによって南大門が建立された時期もほぼ推定されるわけであるが、この扁額も縁の曲線・花紋・書体などの様式から類推して、製作年代を仁治3年前後と考えてもよかろう。

[工芸品]
県指定 [昭44.3・25]
金 剛 鈴 3口
所 在 地 山南町岩屋2
所有者 石龕寺  
管理者 石龕寺
鈴体はなで肩裾張、素文、肩部に3段・裾部に2段の紐帯をまわす。
把の中央部には鬼目をつくらず、上下に二条の線をまわした8葉の蓮弁を刻す。
独鈷鈴の鈷は四角錐で伸びやかであるが鋭くはない。
宝珠鈴は鈷の部分に如意宝珠をのせ、塔鈴は五輪塔形の宝塔をのせているが上部を欠失している。
鈴の部分と把を別に造り、把をどの鈴にも自由に差し込めるようになっているのも変っている。
鈴体、把ともに形よく整い気品に富み、鎌倉時代の鈴である。金剛鈴は密教修法の時に使用する法具で、独鈷鈴・三鈷鈴・五鈷鈴・宝珠鈴・塔鈴を一具として五種鈴と呼んでいる。
・金銅製 独鈷鈴 高 19.5cm 宝珠鈴 高 17.0cm 塔 鈴 高 17.9cm 口 径 各 8.0cm
[工芸品]
県指定 [昭50・3・18]
面界曼茶羅版木 1枚
所在地 山南町岩屋2
所有者 石龕寺  
管理者 石龕寺
 両面に彫った種子曼茶羅の版木である。
胎蔵界蔓茶羅を刻んだ面の上部余白に刻銘がある。
ひどく破損しているが、幸いに干支が読めるので石龕寺常住物として応永28年(1421)に製作されたものであることがわかる。
胎蔵界曼茶羅は中台八葉院を中心とする中央の部分は比較的明瞭であるが、外側にいくほど磨滅がひどい。金剛界曼茶羅は胎蔵界よりもさらに磨滅がひどく、しかも虫喰いの跡が目立つ。
石龕寺には、応永6年頃に造られた30基の町右・応永12年より26年にわたる石仏4基・応永21年の懸仏・応永33年の一石五輪塔が残っており、15世紀前半期における当寺に対する民衆信仰の一端をうかがうことができる。両界蔓茶羅の版木も同時期に製作されたもので、磨滅の状態から推測して、大量の蔓茶羅図がこの版木で刷られ信者達に配布されたことが考えられる。
現在、木の枠にはめて保存されているが、石龕寺における貴重な歴史的遺品の一つである。

[史 跡]
県指定 [昭40・3・16]
石龕寺町石 30基
所在地 山南町岩屋2
所有者 石龕寺  
管理者 石龕寺

 岩屋道と寺坂との石龕寺への参詣道2つに町石群が残っていて、岩屋道は今毘沙門堂の下1町に始まり、奥・井原を経て、村森に至る延々4kmの間にある町石で現在25基が残っている。
寺坂は久下谷、金屋の奥から山の尾を通って直接奥の院に達する山道で5基の町石と石仏がところどころに祀られている。
この町石は高さlm程の五輪卒塔婆形で正面に仏像又は梵字を彫刻し、町数を表わしたものである。
これら町石の建立は応永年間(1394〜1427)である。

氷上郡の文化財(氷上郡教育委員会発行より引用)