檜皮の里さんなん

@檜皮葺(ひわだぶき)とは、檜(ひのき)の樹皮で建物の屋根を葺(ふ)くこと。
 これは、こけら葺(厚さ3ミリほどのスギやサワラの板を重ねて葺く工法)右の写真→や茅葺(かやぶき)(ススキやアシなどで葺く工法)などの植物性屋根葺工法の中で、最も格式の高い技法として、古くから貴族の住宅や神仏を祀る社殿や仏堂に使用されてきた。
A檜皮はいつ頃から使われるようになったのか。非常に古くから使われていたことは間違いないが、西暦668年に滋賀県の比叡山山麓に建立された崇福寺(廃寺)の金堂や三重塔などの諸堂が檜皮で葺かれていたことが確認でき、これが記録に残る最古の事例。奈良時代には平城宮の建物にも檜皮葺が多く用いられていたようだ。
Bこの時代には一般に主要な建物が瓦葺だったのに対し、檜皮葺は付属的な建物の屋根に用いられたようだ。現在のように軒先を厚く見せ、竹釘で檜皮を固定するような技法は平安時代以降のものと考えられている。これにより日本人の感性にあった軽快で優美な屋根の曲線が作られるようになった。
C特に文化財の多い近畿地方では国宝や重要文化財に指定されている檜皮葺建物が多い。奈良時代の室生寺五重塔(奈良県)、平安時代の石山寺本堂(滋賀県)、醍醐寺薬師堂(京都府)、鶴林寺太子堂(加古川市)はじめ、五百余棟が檜皮葺の建物である。 D檜皮葺の屋根はおよそ30〜40年ごとに葺き替える。瓦葺が60〜100年なのに比べると短いが、同じ植物性材料のこけら葺が20〜30年程度なのに比べると長いといえる。
E兵庫県山南町では、広報誌で檜皮葺の特集を組んで住民の理解に努め、一昨年から“トライやる・ウィーク”(兵庫県下一斉に中学二年生を対象とした地域による社会教育)に檜皮葺の修理現場を組込むなど協力を図ってきている。そこには、気候的条件から最も上質な檜皮を生産できる地の利を生かした産業として、檜皮葺技術の保存を捉えられないかと考えている。両者の共通した気持は、伝統技術の現状は、経済的な枠組のみの考えでは難しいが、どこかを少し「伝統や文化」に軸線を移動すれば、「檜皮の里」の再生が可能ではないかと見ていることである。
檜皮葺の技
1.剥く(檜皮採取)
原皮師(皮剥き専門の職人)が」立木の檜より木箆(へら)と振り縄を使って外皮を剥き取る技。
@ 木箆
要の木(カナメモチの別称・バラ科の常緑小高木で、古来扇の骨としたことによる命名ともいい車軸・鎌の柄などにもする)で長50cm〜60cm、径2cm程度、又先は蛤刃につくる。
A つわり
その年の気候や土地柄によって相違はあるが、旧暦で八十八夜から夏の土用の頃までの約3ケ月間は栄養水分の流動が多い時で剥くことは古来より行われていない。又、8年から10年すると皮が張り剥くことが出来る。
B 駄
駄馬一頭が背負う数量から生じた単位。檜皮一丸(30kg)が5丸で一駄となる。
 尚、目安として一駄で1坪の屋根を葺くとが出来る。
 
C 丹波産黒背皮
 最初に剥く皮を荒川と言い、その後八年〜十年位で剥ぎ取った皮を二番皮(黒皮)と言う。
 特に丹波産黒背皮は外部は黒味の光沢があり、脂気の多い上等品のことを言う。
2.拵え(皮切り)
 胡坐をかいて座り、前に当(あて・檜皮を切る台)を置く。独特の檜皮包丁を使い、屋根を葺く用途に選別(平皮・生皮・上目皮等)しながら材料を加工していく技。厚味を揃える「洗皮」と用途別の大きさに揃えていく「綴皮」 の二工程がある。
@ 檜皮包丁
 @は二方共檜皮が切れるようになっていて、又Aの部分は二枚の皮を重ね合わす時にこつく(綴じる)役目がある。Bは檜皮を2枚に剥ぎやすくする時、この部分で檜皮を叩き口を開けやすく(年輪を離なす)する時に用いる。
A 平葺皮
  現在の標準は、長75cm(小口 幅15cm)となっているが、90cm、45cm・36cmの皮も使用される。
一日に切る量としては二束半から三束(一束は十間入り)が一人前の目標となる。 現場切りの時代は「朝は朝星・夜は夜星」が仕事時間で、一日に丸皮四本から平皮を十三束と生皮五束を切られたと聞く。「職人は先輩の仕事を目で盗め」「自分で会得するほかないのが技術というもんである」
3.葺く
 加工した檜皮製品で、軒付(小口を厚く見せる部分)が完了後、平葺(葺足を平均
 1.2cmとし、五、六枚並べると竹釘で押える)と葺き上げていく技。
@ 口から竹釘(身体全てを使用)皮を並べ終えると、左手で竹釘を口の中へ40〜50本頬張り、リズミカルに一本一本口から出しながら右手で「屋根カナ」と言われる金槌で打ち止めていく。 (左手は皮を押え高低を確認する) A 役所(やくどころ)
 軒切り(手斧・ちょんの)、唐破風や箕甲葺、谷葺が役所と言われ、又このことが出来れば一人前と言われた。 当に 職人としての腕の見せ所である。 太田村(山南町)大歳神社造営時(元禄五・1692)「諸入用諸払帳」に軒切りの祝儀が支払いされていたことが記されている。
B 曲線の美(目勾配・目通り)檜皮葺の美しさは何と言っても柔らかい曲線が繊細で、優美かつ荘厳な建造物を醸し出す。 その例として、@隅に増しをつける。 A軒付葺では中央部分を少し扶って切る。 B屋根曲線は縄だるみとする等々工夫を凝らして葺かれている。 又、工事は足場の上で行うが、休憩ごとに地上からその曲線を確認することが一流の職人といえる。
4.竹釘
 竹釘は、檜皮や柿板を留めるのに用いる。特に屋根釘は、口に含んで舌の先で頭と先端を選び出すもので、清潔と縞密な削り方、煎り方が必要である。
@ 種類
  檜皮用の竹釘の長さ
    軒付 一寸五分
    平葺 一寸二分と一寸一分
A 竹の種類
  真竹を主として使用するが、竹には60年目毎の厄年があると言われ、近畿地方の真竹は、昭和40年頃より枯れ始めて、現在は主に孟宗竹が使用されている。
B 日本に一軒
  大正頃までは、屋根職人が夜なべ仕事として作つていたが、現在では山南町梶の石塚氏が唯一作られている。
   
山南町における檜皮の歴史(上久下村村史から) @神社仏閣の檜皮葺きの材料として檜皮は丹波の特産であり、特に上久下村(現在山南町)の産業としては特筆すべき存在であった。一方において檜皮屋根師約50名が村内にあり、全国にその足あとを残しているのであるが、これが材料に丹波の黒皮と称して檜皮業界において重要な位置を占めたものである。 Aしかるに生産と販売の面において不当競争の弊害も多く、従ってこれが対策として同業組合設立の声次第に高まり、大正4年上滝・大前金之助等の熱心なる奔走により丹波絵皮同業組合が発足し、小川村、久下村(現在山南町)地区より約10名の参加を得て組合員約70名を数え、初代組合長に上滝・藤原徳四郎、専務に若林貞次郎を選任して、組合員の製品は全部集荷、等級により価格を定め、組合員の経済的地位の向上と製品、価格等の信用の維持につとめたのであった。
B一方において資金の拡充の必要から、姉妹会社としての会社設立の機運高まり、遂に大正10年、丹波絵皮株式金(資本金10万円)を設立、初代社長村上雅司、専務に若林貞次郎を選出し名実共に絵皮業界における生産販売の王座として全国に君臨した。以来業績もあがり会社の経営も順調に推移し、二代社長山内順一郎、三代杜長友井茂次と成りますます発展一路をたどってきたのである。   Cしかし、時代の推移と銅板屋根の進出により、檜皮の需要は著しく減少し、原料である絵の古木も伐採はげしく、従って絵皮むき職人も追い追いと減少し、昭和15年に至り遂に解散した。しかしその後も、木曽の檜皮が若干入荷して居るのであるが、丹波産の絵皮としては極く少量のものとなり、数名のものが従事している現状である。
檜皮屋根葺きの歴史(上久下村村史から)    
@絵皮葺きの始まりについての記録は、詳しく書かれたものは見あたらない。原始的な杉皮絵皮 は古くから用いられていたようである。仏教は欽明天皇の御代に伝来したが、同時に大陸文化がどしどし吸収された。仏教芸術の急速な進歩は寺院の建立に伴ないかわら茸き建築を普及させたが、神社はかわら茸きにする例がなかったようである。 A持統天皇の御代始めて官舎をかわらぶきにし、元正天皇の御代になって 一般庶民にかわら葺き屋根をを構えることを許したが、専ら寺院のみ使用していたので寺を忌詞(いみことば)としてかわらぶきと称し後世に至って古風を主んずる神社ではかわらぶきをさけるように成った。  
  B大陸文化吸収時代の飛鳥時代(推古)、白鳳時代、奈良時代さえ神社・宮中の緒建造物にはかわらぶきを使用していなかった事実は、絵皮ぶきがこの当時既に大幅に利用されていた事実が十分察せられる。仏教建築物に檜皮ぶきが取り入れられ、日本独得の優美典雅な檜皮葺きの屋根を生み出して行ったのは扶桑略記(阿間梨皇円著、掘川天皇嘉保元年(1094年)に成る歴史)に、天智天皇時代に建立した近江の国の崇福専は檜皮葺きである由記載されている。 C天平のころ既に法隆寺、大安寺、西大寺等の僧房雑舎は絵皮葺きであり、天平宝字5年の正念院文書の石山寺の項に「絵皮堂一宇云々」の記事があり、現存せる室生寺の五重の塔(奈良時代)、栄山寺八角堂(天平宝字年間)が檜皮ぶき構造として貴重なものである。
D檜皮葺きの歴史については大略前述のとおりであるが、それではいつ頃に上久下村に技術の導入がなされたか、これとてもまだはっきりしないが、唯檜皮葺きの元祖と言われる阿草部落の氏神熊野神社の棟札に安永6年(1770年)多可郡岡村村上右平治藤本某の屋根葺き替の記録があり、その次の屋根替安政7年(1855年) に丈右衛門、源右衛門、伊左衛門、佐次兵衛葺くの棟札が残っているさ。これらの人々は現在阿草、広田の先々代の人達である Eこれを考察する時、安永6年の屋根替を契機として、農村の副業として最適と考え、技術の導入をはかり前記多可郡の人々に師事したか、あるいは当時の都京都で修行したか、いずれにしても120、30年前に前記の人達により、あるいはその先代の人達によってその技術が導入せられ、上久下絵皮葺界にもたらせたものと考えられる。
 広田の友井栄一の先代友井長次郎はその全盛時代を築き、一時は上久下経済の花形であったこともあった。
F当時は檜皮葺き界請負師としては日本一として尊敬せられていたのである。遠きは朝鮮、青島あたりまでその足跡を残しているのである。現在は人員も少なく昔日の面影もないが、それでも現在町内30名内外の人々がかろうじて地盤を維持すべく懸命の活躍を続けているのが現状である。